恒河沙
「浮かぬ顔じゃな」
「いつもと変わりません」
哨戒艇のデッキで手摺にもたれて黄昏れていた川畑は、仏頂面で答えた。
「世の憂いは恒河の沙の数よりも多いというからな」
アバス老の言葉に、川畑は白茶色に濁った河水を眺めた。
「(恒河沙……10の52乗か)」
宇宙の恒星の数が10の22乗だ。
「そんなにあったら大変だ」
「若いうちは尽きせぬ悩みに悶え苦しむものじゃよ」
「年をとったら悩まなくていいんですか?」
「年をとると、世の憂いは他人が悪いせいだと考える処世術が身につくからな。己の内を省みて七転八倒する必要はなくなる」
夕暮れの空を背景に、老人は顔にくしゃりとシワを寄せて笑った。
「それはあまり良いとは言えない解消策では?」
「清ければ良いというものでもない。名もなき清水は、泥も汚濁も呑み込んで悠々と流れるようになってこそ聖なる恒河と呼ばれるようになる」
「なるほど……故郷の話ではないのですが、昔読んだものの中に、神に約束された豊かな土地を”乳と蜜の流れる地”と著した本があって……初めてそれを読んだときは、荒野を蛇行する蜂蜜入りミルクの大河を想像して、植物は育ちにくそうだと思ったんですが」
案外、こういう流れだったのかもしれないですねと言って、川畑はトロリと渦を巻く白濁した流れを見つめた。
アイリーンが招待されていた家というのは、とんでもない金持ちだった。
「水上宮殿……」
「伝説の湖上城をイメージして作ったそうよ」
「湖上城って……あれは実際は城とは名ばかりの山奥の簡素な砦みたいなもので、単に湖のほとりに建っていただけだろう」
ジェラルドに同意を求められて、ヘルマンはあわてて「いえ、私は古王国史は詳しくなくて」と首を振った。
「なんにしても、湖に建つ城を作りたいからといって、湖を造っちまうところからやったというのは、剛毅な話じゃのう」
「湖はこの地形なら川を堰き止めてやれば造れそうではあるけれど、恒河からこのサイズの船が直接乗り入れられる運河と水門まで整備されているあたりが、道楽のスケールが違うわよね」
哨戒艇は先導する小舟に従って、ゆっくりと水上宮を目指した。
人工湖の中央に造られた小島全体を覆う白亜の宮殿は、宵闇の中で無数の明かりに照らされて煌めいていた。
船着き場には個人用の豪華な舟艇がいくつも停泊していた。
接舷すると、白を基調にした洒落たお仕着せを着た使用人達が出迎えた。
「ようこそいらっしゃいました」と王国語で声を揃えて挨拶した使用人達は、きびきびと船から荷物を運び始めた。
その中の接客役らしき者が「ご芳名をお伺いします」と告げて、一行の人員構成を確認しに来た。
ジェラルドは自分の名前を名乗り、「お連れ様は?」の問いにフィアンセと秘書と召使いだと答えた。
「招待されたのは彼女だ」
アイリーンは、何食わぬ顔で”フィアンセ”で押し通そうとするジェラルドをちらりと見てから、接客役の使用人に「彼は私の友人の許嫁なの。友人はあとから来ることになっているわ」と告げた。
「左様でございますか」
よくしつけが行き届いているらしき使用人は、無用の詮索はせずにあらためてアイリーンに「お嬢様のお連れ様は」と尋ねた。
「私のエスコート役は遠縁の従兄弟よ」
彼女は事前に決めておいた通りの設定を告げた。
「この船のクルーはこのまますぐに帰投するので、飲み水と軽食をお願い」
「かしこまりました。お部屋の用意をいたします間に皆様にも軽い飲み物をご用意いたしましょう」
接客役は別の使用人を呼んで、手短に指示を出した。どうやら彼は使用人の中では一つ上の立場らしい。
「ご宿泊される皆様のお部屋割で何かご希望はございますか」
「友人のヴァイオレットは良い家柄のお嬢さんで、王国では大貴族の家庭教師を勤めていたの。静かで落ち着ける部屋をお願いね。……彼とは同室や続き部屋でなくて良いわ。寝室は別々に2部屋用意して」
なにか言いたげにそわそわしているジェラルドに、アイリーンはぴしりと釘を刺した。ジェラルドはしおしおと肩を落として、案内役の女の子に連れられて、アバス老やヘルマンと一緒に一足早く下船していった。
シダール人の接客役は、何も見ていないし何も気にしていない顔で、自分の仕事を続けた。
「では貴女様にも寝室を2部屋ご用意いたしましょう」
「あら、私は1部屋でいいわ」
アイリーンは苦笑した。この使用人は優秀なようでいて少し杓子定規なところがあるらしい。あるいは割り当てられる寝室の数が客同士の格付けだと気にする者も上流階級の中にはいるのかもしれない。
アイリーンはその手の見栄にはこだわらない質なので、そういう気遣いは不要だ。
「ベッドが2つあっても、1つしか使わないんですもの。無駄よ」
「承知いたしました」
接客役の使用人は深々と腰を折った。
アイリーンが下船しようとしたとき、渡り板の方で大きな声が上がり、派手な水音がした。
「ああっ!ヘルマン、大丈夫か?!」
「お客様が落ちたぞ!早く引き上げて」
漏れ聞こえた声だけで、アイリーンは何が起きたか察した。そういえばジェラルドの秘書は、船酔い気味でフラフラしていた。
続いて上がった2つ目の大きな水音は、さっき彼女の斜め後ろからさっと駆け出して行ったお節介焼きが、ヘルマンを助けに飛び込んだ音だろう。
小艇での大立ち回りでも落水しなかったのに不憫なことだ。
「(せっかく着替えたのにね)」
アイリーンはびしょ濡れでしょんぼりした大男を想像して、可愛い……いや、可哀想に思った。
「湯浴みの用意と、なにか着替えを用意していただけるかしら」
「かしこまりました」
よくできた優秀な接客役は、アクシデントにも動じず、オーダーどおりに直ちに諸々の手配をした。
ここのスタッフは優秀です。
オーダーどおりにきちんと仕事をします。




