苦悩
”絶句だよ”
手帳に現れたノリコの手書き文字を見て、川畑はデッキに崩れ落ちた。
「(いや、違う。これはこの前の質問の回答だ)」
けして、愛想を尽かされて見下げ果てたやつだと軽蔑されたわけではない。
ノリコが自分の現状をリアルタイムで知る手段はないはずだし、そもそも見るからにまずいことはしていない……はずだ。
軽快に河を遡る哨戒艇のデッキは、日差しは明るく風も爽やかで心地よい。
川畑はキラキラした風景とは裏腹な、どうにも後ろめたい気持ちを持て余した。
「(こっちの一方的な片思いの場合、浮気の概念がわからん上に、謝るわけにもいかないのがつらい)」
なにせ、学園での寮生活中の一番身近にいたときですら、別の女の子との仲を応援すると言われてしまったぐらいだ。下手をすると、「良かったね。その人とお幸せに」と笑顔で突き放されかねない。
”「え?また別の女の子?川畑くんってちょっと可愛ければ誰でもいいの?」”
冷ややかな眼差しのノリコの姿と声をリアルに想像して、川畑は頭を抱えた。
「どうしたの?」
「あなたぐらい可愛い女性だと、男として惹かれてしまうのは不可抗力だと……ゔわはぅっ!」
川畑は口を抑えて飛び退った。
アイリーンは大きな目を見開いて、挙動不審な川畑を見つめた。
みるみるその頬に朱がさす。
「(ぐ……何だその反応。可愛い)」
思わず出た感想と己の大失態に、頭に血が上る。
「いや、なんでもない!何も言ってない」
アイリーンは狼狽する川畑にトロリとした眼差しを向けて、微笑んだ。
「そうね。あなたにはちゃんと言ってもらったことはないから、お願いしようかしら」
「な……何でしょうか?」
アイリーンはスカートの裾を軽くつまんで、その場で少し気どったポーズをした。
「どう?あなたに結ってもらった髪型に合わせて、ドレスも少しシダール風のものにしてみたの。こちらで買ったものなのだけれど、似合ってる?」
確かにいつもの王国風のものより、柔らかな仕立てで、色も明るめで鮮やかな差し色が入っている。シダールの日差しの下で、彼女はキラキラ輝いて見えた。
「とても……お似合いです」
目を逸らせた川畑に、アイリーンは詰め寄った。
「もっとちゃんと見てたくさん褒めて。新しい服を着た女性を褒めるのは男の義務よ」
「は、はい。あの……変じゃないです」
アイリーンはもう一歩川畑との距離を詰めた。
「それは褒め言葉ではないわ。やり直し」
「……綺麗です」
「服が?私が?」
もっとちゃんと私を見つめて、心を込めて言ってほしいと、アイリーンは川畑に要求した。
「ありきたりの美辞麗句じゃなくてあなたの言葉がいいわ。あなたが私をどう思っているか、あなたからみて私は魅力的か教えて」
そう言われても何をどう言えばいいかわからないと、川畑はしどろもどろに断った。
「じゃあ、一言だけで許してあげる」
彼女は、救いの手を差し伸べるように、川畑の手を取った。
「どちらか教えて」
どこか不安げに瞳を揺らしながら、両手でギュッと彼の手を握る絶世の美女に、川畑の脳は停止した。
「好き?それとも嫌い?」
単純化された2択の答えは、スルリと口から出た。
「好きだ」
「私が?」
もちろん”服が”ではない。
「ああ、君が好きだ」
彼女は花が綻ぶように極上の笑みを浮かべた。
「私もあなたが好きよ」と言い残して、彼女はその場を立ち去った。
美女の呪縛から開放されて我に返った川畑は、自分がやらかしたことに頭を抱えた。
彼の胸ポケットの手帳には、”絶句だよ”の次の行にもう一つ言葉が現れていた。
”どうしたの?大丈夫?”
川畑がそれに”大丈夫”と返信できる心理状態に戻るまでには、もう少し時間がかかりそうだった。
「(あああ、溶けるかと思った!)」
アイリーンは船室で顔を覆ってうずくまった。
うっかりすると奇声を発して転げ回りそうな自分を必死に抑える。
「(何あれ、私を殺す気?なんであんなに可愛カッコイイの?おかしいでしょ)」
思えばシダールで再会してから、微妙に彼の様子がおかしかった。特に先程、この部屋に来たときから明らかに様子が違ってみえた。
「(地味で平凡な安心感はどこに行ったの?!)」
もちろん、あの人外男が平凡なわけでも安心できる相手でもないのは、彼女はよく知っていた。
昔、ただの世間知らずの令嬢でしかなかった自分のもとに現れて、人生も世界観も何もかもひっくり返して行った男なのだ。
でも少なくとも、見惚れる容貌ではないという点は、間違いないと思っていた。
しかし、何がどうしたのかさっぱり理解できなかったが、今日に限ってやたらめったら彼がかっこよく見えて仕方がなかった。無骨な造りだとしか見えなかった頬や顎の線は、精悍に思えるし、眉や鼻筋もキリッとシャープで男性的だった。しかも、そこいらの国王や皇帝がザコに思えるほどの強烈な力の存在を感じさせる何かが全身から発せられていて、問答無用で圧倒された。魅了され近づけば、その力に取り込まれて、骨の髄までどころか魂の奥底まで掌握され隷属させられるそうな雰囲気は、これまで彼がまとっていなかったものだった。
そこまでならまだしも、彼のちょっとたれ目気味で、優しく細められた目元が、なんとも甘く色っぽく感じてしまうレベルにまで病状がおよんで、アイリーンは自分の感覚がどうかしたのかと疑った。
しかもあろうことか、彼はその眼差しに明らかに熱をはらませて彼女を見てくるのだ。
「(いやいや、あなた今まで一度も私のことそういうつもりで見たことなかったでしょう?)」
それが今まで悔しくて仕方がなかっただけに、突然原因不明のまま発生した異常事態にアイリーンは戸惑った。
「(ついに私の魅力に彼が気付いた?)」
だとしてもキッカケが不明すぎる。
彼の様子が変わる前に彼女がやったことといえば、暴漢をハンドバックで殴り倒して、軍の哨戒艇を呼んだだけなのだ。
「(……それで惚れるなんてありえない)」
にも関わらず、彼はあからさまに彼女に見とれて、抑制されてはいたが愛の言葉と変わらない声音で彼女に話しかけてきたのだ。しっとりした低音の「お飲み物をどうぞ」が、あんなに口説き文句に聞こえるのはどうかしていると、彼女は自分の正気を疑ったほどだ。
初めてあったときから、いつも無愛想で、たまに微笑もどきを浮かべる程度で考えが読みにくい男だったのに、今日の彼からはありとあらゆる感情がだだ漏れだった。
感嘆、戸惑い、羞恥、狼狽、虚勢、警戒、そして欲望と愛情と歓喜。
圧倒的強者のはずなのに、彼女の一挙手一投足どころか、呼吸未満の吐息一つに反応してうろたえる彼が新鮮で、アイリーンは有頂天だった。
今日のこの彼ならいける。
口を滑らせてグダグダになった相手を、そのまま立ち直る隙をあたえずに追い込んで、アイリーンはついに言ってほしかった一言をもぎ取った。
”君が好きだ”
「(ああ……溶ける。最高)」
思い出しては何度も脳内で繰り返す。
だまし討ちのようなやり方で無理やり言わせた言葉だが、間違いなく何らかの愛情がこもった熱っぽい声だった。
「(これ以上何もなくても、これだけでこの先十分満足して生きていけそう)」
むしろこの先があったら自分が撃沈することが彼女はわかっていた。
実は彼女は、高嶺の花街道をまっしぐらに生きてきて、まともに男性と恋愛関係のお付き合いをしたことがないのだ。
「(勢いで告白しちゃった)」
昔、自覚した途端に敗れた初恋でもあるこの想いは、本当は一生告げる気がなかった。
なかったことにされるのは嫌だが、なかったことにしたい。
複雑な思いで苦悩しながら、とりあえずアイリーンはもう一度彼の重低音の”好きだ”の声を思い出して幸福感に浸った。
翻訳さんに、言語の翻訳を意味合いの直訳で指定したせいで、言語以外のニュアンスが強調表現されて、感情がダダ漏れになっています。




