庇護
「大変だったね。迎えに来て良かったよ」
「ありがとうございます。助かりましたわ」
「逃げた賊については、ベースの奴に連絡済みだから安心していい」
シダール駐屯の王国軍人の艇長は「鬼教官の姪御殿はとびきり美人だったと言ったら、奴ら歯軋りして悔しがっておったわ」と言って豪快に笑った。
小型哨戒艇の船縁に寄りかかって、川面を眺めていたジェラルドは、ブリッジから戻って来たアイリーンに気づいて会釈した。
「まさかこの哨戒艇が、君のチャーター船だとは思わなかったよ」
「叔父は駐屯軍に友人と教え子が沢山いるらしいの」
だからといって、私的に利用していいわけではないだろうが、そういうところは本国以上にゆるいらしい。
「旦那様」
従者が大振りの洗面器とケトルを持って来た。顔と手を拭くように用意したらしい。
「お嬢様には船室を用意いただきました。どうぞ。ご案内します」
ジェラルドの顔を拭い、髪を整えた従者は、アイリーンを促した。アイリーンは、ほつれた髪や、水ハネで汚れたドレスに目を落とした。婚礼祝のゲストにあるまじき有様だ。
「ありがとう。お願いするわ」
彼女は目の前の青年をちらりと見上げた。相変わらず素っ気ない表情だが、どことなくしょんぼりしている。あらためて見てみると、彼の服はぐしょぐしょ。白かった袖もピカピカだった靴も、白茶色に汚れて残念な有様だ。
アイリーンはクスリと笑った。
「お互い大変だったわね」
青年は黙って彼女を船室に案内したが、こころなしかその後ろ姿は先程よりしゃっきりしているように思われた。
「お荷物は運んであります。必要なものがあれば、お申し付けください」
「そうね……」
狭い船室の中を確認したアイリーンは、髪留めを外しながら肩越しに振り返った。
「後で髪を整えてちょうだい。この部屋には鏡がないようだから」
「かしこまりました」
作り付けの小テーブルの上に置いた洗面器にケトルのぬるま湯を浅く注ぐと、その脇に清潔なシダール綿の浴巾を何枚か置いて、彼は一礼した。
「後ほど伺います」
アイリーンは小ぶりな浴巾の一枚を手に取ると、退室しようとする彼を呼び止めた。
「何か?」
怪訝そうな彼に一歩近づいたアイリーンは、彼の頬に手を添えて、柔らかい布でそっとその顎から頬を拭いて、少し湿った黒髪を細い指で梳いた。
思わず仰け反って一歩下がった青年を、閉まった扉に押し付けるように追い詰めて、アイリーンは悠然と微笑んだ。
「あなたも着替えていらっしゃい。もし、次にこの部屋に来たときも、その濡れた服を着ていたら……その場で脱がせるから」
一瞬、言葉に詰まった挙げ句、小さくもごもごと謝罪めいたことをつぶやくと、彼はあわてて部屋を出ていった。
アイリーンは小部屋で一人、クスクスと笑った。
次にアイリーンのいる部屋を訪れるまでには、川畑は己を立て直していた。
「(さっきは醜態を晒したが、もう大丈夫)」
身だしなみも整えたし、翻訳さんへの指示も明確にした。
再会してからこちら、やたらとアイリーンが魅力的に見えて仕方がないのは、おそらく翻訳さんが変にシチュエーションを履き違えた超訳をしているからだろうと、川畑は推測していた。
ひょんなことから川畑が時空監査官から貰ったデバイスに組み込まれていたこのオーバーテクノロジーのスーパー翻訳機構は、有能すぎて時々思いもよらない誤訳をしでかすのだ。
「(五感の入力を全部調整して”翻訳”されるからほぼ現実改変なんだよな)」
自分の印象も操作できるので、潜入任務などにはとても便利で重宝しているが、このシステムは何故か妙なタイミングで、好感度や魅力度を指定外にイジる悪い癖があった。
ノリコに対しては、最初からいついかなる場合でも絶対に相互の印象に補正を入れないことを厳命しているので安心だが、それ以外の相手の場合、たまに相手の反応に違和感を覚えて確認すると、いらない美化がオートで入っていたりするのだ。
無愛想で地味すぎる自分の好感度を少し上げたり、直視できない異生物を人がましく見せたりしてもらえる程度なら、聞き込みや言いくるめには有用だが、目的もないのに印象に派手な演出をされるのはとても困る。
川畑は姿勢を正してノックをした。
「(印象補正は相互にオールカットで、言語の翻訳だけ意味合いの直訳で指定したから大丈夫。完全に誤解なく健全に従者が髪を整えるだけで済むはず)」
これだけ内心で言い訳しないといけないあたり、実はすでにかなりアウトなのだが、川畑はそこには都合よく目を瞑って、扉を開けて部屋に入った。
「飲み物をお持ちしました」
「ありがとう。いただくわ」
振り返って微笑んだアイリーンをひと目見た瞬間、川畑は衝撃で絶句した。
彼は根本的に誤解していたのだが、彼に対するノリコ以外のありとあらゆる異性の誘惑や性的な魅力は、これまで基本的に軽減する方向で補正され続けていたのだ。それは、川畑が翻訳さんを使い始めた最初期に、人魚の入江で”全年齢対応”でレギュレーションを設定したためである。このため、川畑はどれほどの美女、美少女との魅惑のシチュエーションでも、完全に健全なお子様向け仕様のフィルターでガードされていた。
ところが鉱山跡地でレギュレーションを変更したために、川畑に対する翻訳さんのこのお子様フィルターが外れてしまったのである。再会したアイリーンの見え方がおかしくて川畑がうろたえる羽目になっていたのは、実はこのためだった。
ただし、そうはいっても翻訳さんは過保護なので、指示が厳密でないのをいいことに、川畑に”有害’そうなレベルの相手にはそれなりにフィルターをかけていた。それなのに、そうとは知らない川畑はよりにもよって一番危ない相手と対峙するタイミングで、印象補正の禁止を命じてしまった。
かくして川畑は、フィルターありでも”一度見たら忘れないタイプの美女”と評価したほどの最上級の美人と、小部屋で二人きりになる羽目になったのだった、




