孔雀
「”もう来るな”って何なのさ!今日の今日でそんなこと言われたって困るわ」
店の裏口で店員と揉めていたのは琵琶を背負った女だった。漏れ聞こえる口論の内容から察するに、これまでこの店で演奏していた楽士だったようだ。
「若い娘を雇ったからババァは来るなって?ふざけんじゃないよ」
なるほど、ジェラルドのいるテラスの上からではよく見えなかったが、黒髪に白いものが混ざっているし、そこそこ歳なのだろう。
そういう世知辛いバックヤードは客の耳目に入れないでほしいなとジェラルドが思っていると、従者が彼だけに聞こえる程度の小声で「旦那様」と声をかけてきた。
「彼女を呼んでください」
「同情か?きりがないぞ」
「そういうのではないです」
ジェラルドは従者を見上げた。表情のわかりにくい男だが、真剣そうに見える。
「いいだろう」
ジェラルドは許可した。
「ありがとう!旦那さま。なんでも弾くよ。何がいい?」
近くで見る女は、やはり中年だったが、若い頃はそこそこ美人だったろうなという容姿で、今も腰はそれなりにくびれが残っていて、なかなか色っぽかった。
「では、今の時節にあった人気のある曲を。短めの軽いものでいい」
「あいよ」
女は小さな敷物の上で胡座をかいて、胴が孔雀型の琵琶を細い弓で弾き始めた。華やかないい音色だ。
「もう一曲いかが?」
ジェラルドは従者をちらりと見上げた。流しの楽士にしてはいい腕だが特筆するほどのこともないレベルだ。なぜ彼がこの女を呼ばせたのかわからない。
「お前は何か聞きたい曲はあるか」
「では、”緑の丘”という曲を」
従者は特に表情を動かすこともなくそう言った。
「おや、珍しい曲をご存知だね」
「昔、知人がよく歌っていたのですが、調子っぱずれだったので、本当はどんな曲なのか知りたいです」
「あっはっは。私の昔の馴染みにもこの歌を好きな男がいたけど、そいつも音痴だったよ」
女は愉快そうに笑いながら弦の調子を整えていたが、ふと何かを思い出そうとする顔をして、従者を見つめた。
「……マーリード?」
「お久しぶりです、マユーリ。ジンのことを伺っても良いでしょうか」
昔、鉱山の慰安団にいた女楽士は、表情を険しくして、ここで話すようなことではないと言った。
「どうせ吟遊楽士を宿に連れ込むなら、もう少し若くてきれいな娘が選り取りだったじゃろうに」
アバス老のあけすけな感想に、ジェラルドは顔をしかめた。
「彼女を誘ったのは僕じゃなくてブレイクだ」
「なんじゃ、おぬし。年増好みじゃったのか」
無愛想な従者は機嫌の悪そうな顔をした。
「俺は同い年か1,2才下まで以外は対象外だ」
「へー、そうなんだ。好みのタイプってあるの?」
「今は一人以外は眼中にない」
「えっ?!ウソ。マジで好きな相手がいるの?それ人間?」
「異種族に興味はない」
恋愛話に食いついたジェラルドをうっとおしそうに引き離した従者は、入り口近くで戸惑っていた女楽士に、控えの小部屋に来るようにと声をかけた。
孔雀琵琶の女楽士は、非合法な剛石鉱山の鉱夫のための慰安団にいた。たまたま流行り風邪で寝込んで休んだ日に、鉱山は軍の手入れにあい、慰安団は雇い主も女衒も含めて全員殺された。
彼女にそれを教えてくれたのは、馴染みになっていた鉱夫のジンだ。その夜、ひどい怪我をして夜中にやってきた彼は、二度と慰安団の関係者のところには行くな、自分が慰安団に参加していたことは誰にも言うな、と念を押してから、その夜が明けぬうちに立ち去ったという。
「それ以来、あいつの顔は見ていないわ」
なんの音沙汰も無いし、待つことももうやめて久しいと、彼女は苦笑した。
「マーリード、あんたが生きているとは思わなかったわ。良かったわね。いい身なりしてるじゃないの」
彼女は、感慨深そうに彼の胸元に手を当てて、上質なお仕着せの上着を撫でた。
「それに口がきけるようになったのね。想像していたよりいい声だわ」
「あなたの美声も健在です。素晴らしい歌声でした」
「長生きはするものね。女に世辞を言うマーリードが見れる日が来るなんて、姐さん方の誰一人信じちゃくれなかったでしょうもの……」
彼女は俯いて声を詰まらせた。
「あなたに会えたことを感謝します。生きていてくださってありがとう」
「なにを言ってんだい」
彼女は嗚咽をこらえきれずに、目の前の広い胸に額を押しつけて泣いた。
彼は黙って彼女をあやすように背中に手を添えた。
「あいつ、僕のことをすぐに女に手を出すチャラい色魔扱いするんだけど、ああいうのどう思う?」
「本人は年下にしか興味がないというとるんだし、口説いとるわけではないからいいじゃろ」
控え部屋を覗いてブスッとしていたジェラルドを、アバス老はニヤニヤしながら連れ出した。
「鉄道の古い引込線があったのよ。昔、駅舎を立てたときの木材搬送用だかなんだかで、東側に伸びてた。夕方、川を渡った私達は、駅舎から少し離れた倉庫の脇の小屋で待たされてね。迎えに来た馬車に乗って専用の汽車が停まっているところまで連れて行かれて、そこで乗り換えていたわ。街からは見えないところに簡易の停車場があったの」
「案内してもらうことはできるか?」
「ずいぶん昔のことだし、ずっと近づかないようにしていたから、今はどうなっているかまるで知らないけれど、それでも良いのなら……でも、本当に行くの?」
マユーリは心配そうに、古馴染みの弟分を気遣った。
古馴染みのジンはちょっとキザで人を煙に巻く物言いが好きな男だったが、この弟分のことは存外気にかけていた。ジンは、当時、口も聞けず、ぬぼーっとしていたこの大男にマーリードという名前をつけて、慰安団のマユーリのところにも連れてきていた。
マーリードはマユーリ達が歌ったり踊ったりするのを見るのは好きらしく、連れてこられたときはいつもジンの隣で大人しくしていたが、演目が終わると祝儀金をおいてさっさと帰ってしまうのが常だった。
一度、ジンに頼まれて、隊で一番美人の姐さんが彼の相手をしてやろうと迫ったことがあった。あのときは、外から鍵までかけてやったのに、扉の蝶板をダメにして部屋から逃げ出したという話を、様子を見に行った連中から聞いて、みんなで呆れたものだった。
当時のマーリードは、ちょっと頭の足らない子供みたいな印象だったが、粗暴な鉱夫の中では、穏やかで親切で歌舞音曲の芸にきちんと金を払ってくれるので、慰安団の芸人の間では密かに人気があった。マユーリも彼のことは弟を持ったような気持ちで可愛らしく思っていた。
今の彼は、王国風のきちんとした仕立ての服を着て、流暢に話して、とても頭の良いしっかりした男に見えた。
それでもマユーリはつい昔の印象でマーリードを心配することを止められなかった。
「遠いし、危険よ。もうずっと誰も行っていないとは思うけれど、関わらないほうがいいわ。どうしていまさらあんなところに行きたいの?……ひょっとしてあの金髪の王国人に脅されているの?」
「いいや。彼はそんな人ではない。俺は……あの日何があったのかを知りたかったんだ。ジンがどういう風にあの件に関わっていたのかを」
彼は自分で自分の言った言葉を反芻する等に口をつぐんだ。
「マーリード。あなた、ジンに助けられたんじゃなかったの?」
マーリードはマユーリと視線を合わさないまま、俯いて低い小さな声でのろのろと答えた。
「俺はあの日、懲罰小屋にいたんだ。ジンは、また後でと言って小屋を出て……それっきりだ。つい最近まで、彼が生きていたことも知らなかった」
「あの人、生きていたの……」
マユーリは、嬉しいのか辛いのかわからない表情で、そう呟いた。
細工格子の窓から差し込む西日が、幾何学模様の影を二人の足元に落としていた。
顔を上げたマーリードは、マユーリを気遣うように、穏やかに声をかけた。
「今でも危険があるのならあなたに案内はしてもらわないほうが良さそうだ。あなたを危険に晒すのは本意ではないから」
マユーリは目を細めると、愛おしそうにマーリードの短く整えられた黒い髪を撫でた。
「あんたは昔から優しい子だったけど、立派なことを言うようになってもやっぱり優しいのね」
子供のように頭を撫でられて、大柄な男はちょっと困ったような顔をした。
マユーリは仕方がないわねぇと微笑んだ。
「いいわ。覚えていることはみんな教えてあげる。役に立てるかどうかはわからないけれど、引込線も一緒に探しましょう」
「無理はしないで欲しい」
「ありがとう。でも、協力させて。何もできずにただ、おいていかれて、忘れ去られるだけの人生に飽き飽きしちゃってたのよ」
どうせ仕事はクビになっちゃって、明日から暇だし、と笑う彼女は綺麗だった。窓から見える街には、少しずつ明かりが灯り始めた。




