医師
ドクターアーサー・ウィステリアはタミルカダル駐屯軍の軍医だ。
とはいえ、戦時ではないため、軍医の仕事はそれほど忙しくはない。ドクターウィステリアも他の兵士たちと同様に本業の方は、南方特有のゆったりとした時間感覚で適当にゆるゆるとこなしていた。
タミルカダルでの彼の本領はむしろ勤務時間外にあったと言って良い。
民俗学や神話に造詣が深く、骨董趣味があった彼は、黒街の古美術商のところに入り浸りだった。給料の範囲で買える品には限りがあり、当時、まだ独身で連隊の宿舎で寝泊まりしていたために置き場もなかったので、彼はひたすら店に通って、買えない商品を眺めていたのだ。
当然、最初のうちは店主から邪魔だと邪険にされたが、そのうち店番や接客までこなす有様で、完全に居着いてしまっていた。
それだけならただの変わり者の酔狂な王国人という程度の扱いだったのだろうが、ドクターは黒街の骨董屋にいてもドクターだった。
界隈で病人や怪我人が出れば診察や治療を行い、派手な喧嘩の切り傷の縫合手術までなんの頓着もなくやった。相手が貧乏人でも悪党でもお構いなし。そこいらの闇医者と違って腕はまともなのに、料金は後払いでいいから払えるだけを骨董屋に渡せというルーズさ。単純な腹下しで死にかけた子供を救われた母や、破傷風で利き腕を失わずにすんだ職人など、心から彼に感謝している者も多かった。
どうせ軍の官給品だからと、消毒用アルコールや鎮痛剤のコカインやモルヒネもちょくちょく融通するというあまり潔癖でも聖人君子でもないドクターは、黒でも白でもない男として”アッシュ”と呼ばれて黒街の住民に親しまれていた。
骨董屋の主人は、治療費なんか払ってくれる奴はいねぇし、多少の金じゃドクターのツケには足らねぇとボヤいていたが、そのうち店の一角に治療用のベッドを置いた。ベッドに特価の札がぶら下がっているのは、意地っ張りな店主の言い訳だと近所の住民は皆知っていた。
貧乏くさい無精髭を生やして、いつも骨董を眺めてはヘラヘラしていたいい加減な若いドクターは、ある日突然、恋に落ちた。
お相手は新興交易商のお嬢さんで、一目惚れだった。
お嬢さんが付き人と外出したところで軽いトラブルに巻き込まれ、そこに通りかかったドクターが……という陳腐な出会い方だったが、ドクターの恋煩いは重症だった。
彼は骨董屋に通うよりも熱心にお嬢さんの元に通い、使用人の目を盗んでは、彼女の部屋の窓辺から愛をうったえ、彼女もその想いに頬を染めていた。
彼女はそれなりにいい家のお嬢さんではあったが、大富豪の一人娘というわけではない。ドクターは王国のそこそこいい生まれで学歴も職歴もまともなので、普通なら素直にプロポーズすれば、十分に勝算のある相手だった。
しかし、事はそう都合良くは運ばなかった。
彼女の家はやむを得ない事業上の損失の穴を埋めるために多額の融資を必要としていた。土地の有力者である大富豪と縁を結ぶため、彼女は20以上も歳上の富豪の第3夫人に納まることになっていたのだ。
どうしても納得することも諦めることもできなかったドクターは、富豪と交易商の商談の場に単身乗り込んで、お嬢さんを妻にしたいと申し出た。
娘の父親である交易商は顔を真っ赤にして怒ったが、富豪の方は鷹揚に笑って、条件を出した。曰く。
「私が彼女に用意する婚約指輪よりも、素晴らしいものを用意することができたら、彼女は君の妻として良いし、もちろんその場合も融資の話は変更なく進めよう」
……と。
おそらくその時点で富豪は、ドクターが借金持ちの骨董マニアだという程度の情報は知っていたに違いない。望みがありそうでない条件をぶら下げて、面白がっているのは明らかだった。
絶望的な勝負だったが、ドクターはその場で受けた。
かならずや最高に価値のある品をお持ちします、と宣言した彼に、交易商は期限は3日だと告げた。
啖呵は切ってきたものの、ドクターには全くアテはなかった。彼は骨董屋の在庫どころか取引先の品揃えまで把握していたが、大富豪が用意できそうな品に対抗できる逸品はなかった。
必死の形相でツテを頼って駆けずり回るドクターに声をかけたのは、以前、喧嘩傷を彼に治療してもらった裏街の宝石職人だった。
「アッシュの旦那。俺の仕事場に来い」
連れて行かれたのは、水路脇の狭い作業場で、水車の回る音が単調に響いていた。
宝石職人は頑丈な鍵のついた棚から、平たい箱を取り出して机に置いた。
「あんたには職人としての俺の命を救われた」
箱の中身は多種の宝石の原石と、見事にカットされた完成品の数々だった。
「俺はあんたの骨董趣味に金を出す気はねぇが、あんたが幸せになるためならなんだってしてやれる」
宝石職人は顔を間近に寄せて、ギラリとした目でドクターを睨め上げた。
「あんたが良いと思ったものを持っていけ」
「しかし……」
宝石職人はもう一つ別の小ぶりな箱を取り出した。
「コイツは先月あんたが拾って脚の傷を直した男が持ち込んだ石だ。あんたのおかげで俺はこんな仕事をすることができた」
小箱の中身を見て、ドクターは息を飲んだ。
「これは来週納品する」
宝石職人は箱を机に置いて、窓の方に向いた。
水車の音だけがゴトゴトと響いた。
「さぁ。好きなのを1つ持っていけ」
こちらに背を向けたまま、宝石職人はそう言った。
「すまん」
ドクターが部屋を出ていく音を背中に聞いて、宝石職人は「ヘッ」と口の端で笑った。
期限の当日。
「一世一代のプロポーズにそんな身汚いナリで行ってどうするんだい!さっさと風呂に行って、垢を落として、ヒゲを整えておいで!!」
黒街のおかみさん連中にどやされながら、ドクターが大わらわで身支度を整えていたとき、怒号が上がり、にわかに表が騒がしくなった。
「はっ、親父の酔狂につきあわされているのは、どんなバカかと思って見に来てみれば、随分と薄汚い巣穴に住んでいるネズミだな」
手下をぞろぞろ連れてやってきたのは、くだんの富豪の息子だった。
こんな界隈にそぐわない身なりの青年は、着替えの途中でアンダーシャツ姿のドクターを鼻で笑った。
「汚いのは巣穴だけではなかったか」
体格もよく見栄えのいい青年は、さんざんドクターをバカにした挙げ句、どんなガラクタを用意したのか見せてみろと要求した。
「どうにもならんクズなら、お前が恥をかく前に捨ててやるし、多少はマシな代物なら俺が持っていってやろうじゃないか」
富豪の息子は女好きのする顔でニヤリと笑った。
「どんな女か知らないが、親父の妾やネズミの女房になるより、俺の女になれるほうが喜ぶんじゃないかな」
「……このクズめ」
ドクターが奥歯を噛み締めたとき、店の周りの野次馬の中から、一人の身重の女が飛び出してきた。
「これ以上、あなたのせいで女性を不幸にはさせません!」
女は大振りな短刀を両手で握って、青年に体当りした。青年が倒れ、青年の手下が女を引き離したところで、女は手にした刃物で自分の喉をかき切った。
突然の修羅場に辺りは騒然とした。
ドクターは女と青年に駆け寄り、傷を確認した。
「女は死んでるが腹の子は生きてる。すぐに取り出す。ベッドに運べ。そいつはそこの戸板を外してその上に寝かせろ。今、血止めだけ先にして、後でちゃんと縫ってやる。おばさん、湯を沸かしてくれ」
4日目の朝。
富豪が自宅の中庭にある祭壇で朝の祈りを終えて出てくると、目の下に隈を作って酷い顔をしたドクターが待っていた。
ドクターは片手を胸に当てて一礼した。
「今頃、なんの用かね。期限は昨日だったのではないかな」
ドクターはむっつりと不機嫌そうに肯いた。
「だから昨日のうちに家には送り返したぜ」
「なんのことだ?」
「自分で確認してくれ。俺が送ったものよりも、そこいらで買える装身具の方が大事だって言うなら、あんた、毎朝、神に祈ったってしかたねぇよ」
それだけいうとドクター”アッシュ”ウィステリアは踵を返して立ち去った。
「それで……どうなったんだ?」
骨董屋の店頭を掃除していた店主は、帰ってきたドクターに尋ねた。
「どうもこうもないさ」
彼は肩をすくめた。
「出番がなくなったんでな。宝石は宝石屋に返してきた」
こっちはあんたに返すと言って、ドクターは店主に、座金だけついた指輪を放り投げた。
「もらっとけば良かったじゃねぇか。気に入ってたんだろう」
「そういうわけにいくかよ」
ドクターは苦笑した。
「その代わり今度、別のもっと安い石を同じカットで仕立ててくれるそうだ」
「じゃあ、またこいつが必要だろう」
店主は指輪を摘んでみせたが、ドクターは首を振った。
「指輪は目立ちはするんだが、どうも石が大き過ぎてバランスが悪いんだよな。なにかこう……もっとご婦人が身につけやすくてああいう石が映える品ってないかな」
「婦人物なんてどうするんだ?」
ドクターはあたり前のことを聞かれて驚いたとでも言うように目を瞬かせた。
「そりゃあ……愛する妻に贈るのさ」
富豪と親交を結び、交易商の娘と結婚したアーサー・ウィステリアは、その後もタミルカダルで軍医として勤めた。宿舎から一戸建ての家に移り、骨董の置き場はできたが、一女をもうけた彼は趣味は程々に控えて、幸せな家庭を築いた。
それでも黒街の骨董屋には時折顔を見せ、界隈の病傷人の治療はそれなりに続けた。
彼が熱病を患い、妻子ともども本国に帰還したときは、人の出入りにドライな黒街の人々は、珍しく別れを惜しんだ。




