看病
アイリーンが目を覚ましたとき、傍らにヴァイオレットの姿はなかった。変な時間に寝たせいか頭がぼんやりする。
「(喉が渇いたわ)」
起き上がろうとしたところで、ノックがあった。
「お目覚めですか?」
扉の向こうから遠慮がちにかけられた低い声は、従者の青年のものだった。
「すみません」
ポットやカップの載った盆をサイドテーブルに置いて、青年はうなだれた。
背を支えられて上半身を起こしたアイリーンは、ゆっくりとカップの中身を飲ませてもらった。
彼の説明によれば、シダール式のマッサージは単に筋肉の凝りを解すだけではなくて、体内の血液や生気の循環を活性化して体調を整えるものなのだそうだ。本来は、足から順番に全身をゆっくり揉んで行くのに、今回、素人が手先を軽く揉むだけで、体内循環に影響を与えようとしたせいで、バランスが崩れてしまったらしい。
「血液はわかるけれど、生気というのはどういうものなの?」
「説明しにくいのですが、精神力とか魔力とか呼ばれる物質的ではない力です。血のように体内でめぐっていて、上手く整えると肉体を健康で力強くできます」
「バランスが崩れると、今の私のようにぼんやりだるい感じになるわけね」
「本当にすみません」
ジェラルドとヘルマン相手のときは、特にそんな失敗はしなかったので、あまり気をつけて全身の流れのバランスを見ていなかったと、彼は謝罪した。
「……見ようと思えば見えるの?」
「はい。ただ、その……あなたがあまり気持ち良さそうにしてくださったので、ついそちらに気を取られてしまい……」
眉をギュッと寄せて険しい顔をしているが、目元がうっすら赤い。
「だから完全に俺の過失です」
彼は頭を下げた。
「旦那様には今日一日こちらであなたのお世話をしていても良いと許可を頂いてきました。あなたの体調が戻るまで看病をさせてください」
アイリーンは、回らない頭でぼんやりと考えた。
「では、今日あなたは私のものというわけね」
「はい。あなたのご命令に従うように言われています。というか、命じられたことと許可されたこと以外は何もするなと厳命されました」
今、しっかり背中を抱えるように支えて、小さく切り分けたフルーツを少しずつ口に運んでくれているのは、自分が命じたことでも、許可したことでもない気がする……とアイリーンは思った。それとも、美味しそうだなと盆の上のフルーツに目をやったり、差し出されて口を開けたら、命じて許可したことになるのだろうか?
そのルールならあるいは、と思って彼女は、青年の地味な顔をじっと見つめてみた。
「もう少しお休みになられますか?」
特にルールはないようだった。
「もうしばらくこうしていたいわ」
アイリーンはフルーツをもう一口だけ食べさせてもらった。
それなりに満足した気分になった彼女は、ふと傍らの青年の口元が微かに笑っているのに気がついた。
「何?」
「あなたがそうやって笑顔なのはいいなと思って」
「別に笑っていないわ」
「ああ。でもさっきは少しつらそうで……心配だった」
彼はフォークを皿に戻し、彼女の顔を見つめた。
彼は蜜で光る彼女のふっくらした唇の下端をそっと親指でなどった。アイリーンは仕返しに、その拭われた蜜を舐めて、親指を軽く囓った。
彼は残りの指で彼女の頬を撫でた。
「触れてもいいだろうか」
「触れてから聞くの?」
触れられているところから熱い何かが流れ込んでくるような感じがして、アイリーンはうっとりと目を細めた。青年は彼女の髪を梳くように、額から耳の後ろ、首筋へと順に指を滑らせた。
「心地よさそうにしているあなたを間近で見られるのは嬉しい」
彼は満足げにしみじみと呟いた。
「でも、口説く気はないんでしょ?」
アイリーンは離れかけた彼の大きな右手を両手で握り、手の甲に1つ口付けを落とすと、胸元で抱えた。
「俺とあなたでは身分も容姿も年齢も釣り合わない」
彼はするりと手を抜いて、ハンカチを彼女の口元に軽く押しあてた。
「だから、俺がしていいのは、許された範囲であなたの望みを叶えることだけだ」
ハンカチを押さえる自分の右手の甲に、彼は騎士が誓いを立てるときのように唇を落とした。
ハンカチがなければ互いに吐息がかかりそうな距離で、視線が絡んだ。アイリーンは細められた彼の目の奥に、ゆらゆらと揺れる緑色の光を見た。
「もしもこちらから望んでいいのなら……」
ハンカチが降ろされて、彼は真摯な表情でアイリーンに向き合った。
「いいわ。言ってほしい。あなたは何をしたいの?」
緊張で声が掠れた。
「もう一度……いや、もっとあなたに触れてもいいだろうか」
彼の視線がアイリーンの顔から胸元へと順に降り、足先まで全身をゆっくり追った。
「足先から順番に全部」
アイリーンは彼の意図を察して、詰めていた息を吐いた。
「つまりマッサージをやり直したいのね」
「今のその不調を修正したい」
「練習台にする気ね。悪化しそうだわ」
「それは……その…ちゃんと治るまで責任を持ってやるから」
アイリーンはずり下がって、この困った男を恨めしそうに見上げた。
「痛くはしない。優しくするし、慎重にゆっくりやって負荷はかけない」
「今朝はちょっと痛かったわ」
「でも、気持ちよかっただろ」
「う……うん」
彼は熱意に溢れる目で彼女に迫った。
「絶対に満足させる」
アイリーンはダメな選択なのを自覚しつつ、小さな声で「いいわ」と肯いた。
1セット2時間。
もちろん1回では終わらなかった。




