風呂
需要のないお風呂回
「(あ、これはやばい)」
立ち上がろうとしたら、くらりとして、視界が暗転した。
「ヘルマンさん」
とっさにがっしりとした腕に支えられた気がしたが、あとはどうなったかわからなかった。
シダール風呂は、ひとつ下のデッキの船尾近くにあった。船のボイラールームの熱を利用しているらしい。
ジェラルドと従者に連れられて来たヘルマンは、異国風の装飾のカウンターで3人分の受付を済ませた。
紳士用のみだということに従者は驚いていたが、ヘルマンの感覚からすれば、ご婦人が他人がいる場所で肌を露わにするなんてありえない。いいところの出身の青年だと思っていたが、そういう感覚はかなり怪しい界隈に染まっているのかもしれないと、ヘルマンは彼の評価を一段下げた。
中に入って初めてだというと、案内係に着替えるように言われた。軽い運動をして汗をかくためらしい。
渡されたのはシダール風にアレンジされた薄手のバスローブのような頼りないもので、これ1枚だけになれという。ヘルマンは全然、落ち着かなかったが、ジェラルドと従者がまったく動じていなかったので、一人怖気づくのは格好悪いと我慢した。
「(というか、この二人には羞恥心はないのか!?)」
奴隷だという従者はもとよりなんの躊躇もなく脱ぐし、ジェラルドも高位貴族が使用人にさせるように、従者に手伝わせて着替えていた。
「(くそう……奴ら恥ずかしくない体型しているから平気なんだな)」
ヘルマンは自分の青白くて薄い腹をさすった。筋肉はそれなりについてはいると思うが、事務職について長いため若い頃と比べて肉は落ちているし、硬さもはりもない。
それに比べてジェラルドは、女顔の童顔のくせに、脱ぐと意外に筋肉質でちゃんと腹筋が割れている。あんなに生活習慣は悪いのに、肌色もヘルマンよりいい。従者に至っては……。
「(あれは比べてはいかん奴だ)」
多分、生物として種族が違う。とヘルマンは割り切った。
軽い健康体操をするという部屋に入ると、他にも客がいた。腹が出た中年男性や手足の細い老人と比べると、自分はまだまだマシだと思える。……古典派の宗教絵画に描かれた神話の英雄みたいな筋肉の男が真横に立っているのがいけないだけなのだ。
体操は本当に簡単な軽いもので、凝り固まった筋を伸ばすのは気持ちよかった。ヘルマンは酒樽体型の中年男性や枯れ木のような老人と仲良く歓談しながら、案内係の指導に従って無理のない範囲でゆるゆると体操に励んだ。
ジェラルドと従者は「若い方はもう少し頑張ってみましょう」と言われて、ややハードな運動をやらされている。ヘルマンはこの場合は都合よく自分を中年に分類した。
あとから来た軍人のような体型の厳つい鷲鼻の男性は、明らかにヘルマンよりも歳上なのに、あちらのハードな組に案内されていたが、そこは気にしなかった。
少し体をほぐしたところで、熱い蒸気のこもった小部屋に案内された。先程の部屋も暖かかったが、ここは暑い。ヘルマンは他の客達と一緒に、低い木のベンチに腰掛けてくつろいだ。
太った中年男性はすぐに汗だくになり、老人も暑すぎると言って早めに席を立った。
「私は連れが来るのを待ちますので」
ヘルマンはジェラルド達が来るのをぼんやりと座って待っていた。全身が暖かくてとてもいい気持ちで、少し頭がふわふわする感じだった。
程なくやってきたジェラルド達を出迎えようと立ち上がったところで、ヘルマンは立ちくらみを起こしてひっくり返った。
軽く蒸風呂を体験し終わったジェラルドは、脇の控室に秘書の様子を見に行った。
「どうだ?ヘルマンは」
カウチに寝かされたヘルマンは、入浴着の前を大きく開けられていた。ジェラルドの従者は、ヘルマンの額と下顎に手を添えて、彼の上に屈み込み、その口元に顔を寄せている。
「何をしている」
ジェラルドの口から思わず尖った声が出た。しかし振り向いた従者は、特に焦ることも悪びれることもなく、普通に「おかえりなさいませ、旦那様。お風呂はいかがでしたか」と呑気に返答した。
「喉をつまらせるといけないので、気道を確保して呼気を確認していました」
呼吸は安定しているので心配ないと、従者は説明した。
「蒸風呂に長く居すぎて、のぼせただけでしょう。太い血管のあるところを冷やしているので直に良くなります」
見れば、ヘルマンの頭と両脇と脚の付根には、濡れた布が畳んで乗せられている。足元に水の入った小桶と予備の布があるところをみると、温んだらこまめに取り替えていたのだろう。
話し声で気がついたのか、ヘルマンが目を覚ました。
「大丈夫ですか?喉が渇いたでしょう。飲み物をもらってきます。戻ってくるまで、もう少しゆっくり寝ていてください」
「ああ、うん」
従者は、まだぼんやりしているヘルマンの頭から落ちた布を新しいものと取り替えて、髪を撫でて軽く梳いた。脇と脚を冷やしていた布は取って、手際よく入浴着の前を整えると、彼はスッと立ち上がって部屋を出ていった。
ジェラルドは自分の従者が、自分以外の人間の世話をせっせと焼いているのが、なんとなく不愉快だった。
「はい、旦那様。こちらをお飲みください」
戻ってきた従者が差し出したグラスはひんやりしていた。
「入浴時の水分補給は大切です」
グラスの水はほんのりと柑橘系の香りがして、火照った体に心地よく沁み渡った。
「うまい」
「それはよろしゅうございました」
ジェラルドは、自分が優先して飲み物を渡されたことで少し気持ちが上向いた。
ふと、ジェラルドは自分の従者は結局、蒸風呂にはいれていないことに気づいた。
従者はヘルマンを抱え起こして水を飲ませながら、旦那様がマッサージを受けている間に、彼を船室に連れていくと言った。
「いや、ヘルマンは僕が連れて帰る。お前は蒸風呂に入ってマッサージをしてもらってから帰ってこい」
気がつけばジェラルドはそう命じていた。
「旦那様、それは流石に……」
「いいから言うとおりにしろ。僕はもう部屋で休みたい」
「でしたら私も戻ります」
「馬鹿だな。お前はここでマッサージを体験して、シダール風のマッサージがどんなものかよく学んでこい。そうしたら、僕は自分の部屋でいつでも好きなときにマッサージしてもらえるじゃないか」
従者はジェラルドの変な理屈にちょっと首をひねったが「ご命令でしたら」と素直に了承した。
それから彼は、ジェラルドを見つめて「ありがとうございます」と礼を言った。
「別にお前のためじゃない。僕のためだ」
ジェラルドは不機嫌そうな表情を作って、飲み物のおかわりを要求した。
なんとか回復したヘルマンを連れて控室から出ると、心配していた案内係がやってきて、マッサージはどうするかと尋ねた。
「僕と彼は疲れてしまったから今日はここまでで遠慮しておくよ」
気を揉む案内係にジェラルドは、実は喉が渇いたから部屋で一杯やりたいのさと笑ってみせた。
「代わりにこいつはたっぷり揉んでやってくれ」
「わかりました。それでは3名様分のスペシャルコースをご案内します」
押し出された従者に、案内係は本場シダールのマッサージ師による本格オススメコースだと胸を張った。
「どんなところでやるのか僕も部屋だけは見ていこうかな」
好奇心に負けたジェラルドは、従者が蒸風呂に行ったあと、案内係に頼んでマッサージ室を見せてもらった。
小さなランプが灯るだけの薄暗い小部屋は、シダール風の装飾で雰囲気満点だった。甘い香がうっすら焚かれた室内には、小さな衝立とシンプルなベッドが1つあるだけだ。
そしてそこを担当する”本場シダールのマッサージ師”を見て、ジェラルドとヘルマンは震え上がった。
その色黒で禿頭の巨漢は、二人をみるとニンマリと肉食獣のような笑みを浮かべた。
「どちらから先に天国に送ってやればいい?」
「あ、ああ。残念ながら僕らは見学だけなんだ。うちの使用人がこのあと来るから、彼をたっぷり揉んでやってくれ。本場のマッサージがどんなものか教えてやって欲しいんだ」
ヘルマンは、目が死んでいても口元に笑みを浮かべてこれだけの返答ができるジェラルドを尊敬した。
「すみません。このあとはお待ちの方が1名先に入られますので、お連れ様はその後になります」
マッサージ室を出たところで案内係が申し訳無さそうにそう言った。ジェラルドは死んだ笑顔のままで、構わないと鷹揚に答えた。
ヘルマンは先程、運動室で見かけた厳つい鷲鼻の客が、別の案内係に連れられてマッサージ室に入っていくのに気がついた。どうやら彼が倒れてしまったために順番が前後したらしい。
迷惑をかけて申し訳ないことをしたと思いながら、その場を立ち去ろうとしたヘルマンは、背後のマッサージ室から、くぐもった男の悲鳴が聞こえてきたのに総毛立った。
ゆっくりと隣を見ると、目が死んだままのジェラルドが、素敵な笑顔を浮かべていた。
「僕は何も聞こえないよ。さあ、帰ろうかヘルマン」
「あの……ブレイクは……」
「あいつは丈夫だから平気さ!我々は部屋に戻って全部忘れて一杯やろう」
ヘルマンは激しい罪悪感に苛まれたが、背後から漏れ聞こえる絞め殺されているような男のうめき声が怖くて、ジェラルドと一緒に足早にその場を立ち去った。




