令嬢
「助かったわ。ありがとう」
プラチナブロンドの美女は、ヴァイオレットの左隣の椅子に座った。
「差し出がましいことをして申し訳ありません。大丈夫でしたか」
「あいつ昨日からしつこくて」
彼女は、憤懣やるかたなしという様子で、鷲鼻の男が立ち去った方を忌々しそうに睨んだ。
「鬱陶しいから昨夜は早々に船室に引き上げたんだけど、朝から出くわすなんて思わなかったわ。適当にあしらっておくつもりだったけれど、これからのことを考えると憂鬱だったのよ。声をかけてくれて本当に良かった」
彼女はヴァイオレットを真っ直ぐな瞳で見て、にっこり笑った。
「昨日、助けてくださった方ね。あなたとまたお会いできて嬉しいわ」
「こちらこそ」
ヴァイオレットは、ストレートに好意を示されて戸惑ったが、第一印象よりも、気取らずさっぱりした方だと好感を抱いた。彼女は、従者が彼女の分の紅茶も用意したそうにしているのに気づき、目線で了承した。
「昨日はそれほどお話できませんでしたけれど、よろしければ少し二人でゆっくりお話しませんか」
「素敵。私もあなたともっとお話してみたかったの。お時間を頂いてよろしいのなら、お言葉に甘えさせていただくわ」
叔父夫婦の付き添いで乗船するはずが、叔父が急に体調を崩したので想定外の一人旅になったのだと彼女は語った。
「安全な船の旅とはいえ、ずっと一人かと思うと心細かったのよ」
変な男にはからまれるし、と彼女は顔を曇らせた。
「それは大変でしたね」
ヴァイオレットはこの美しいご令嬢が伴もいない状態で一人旅ということにたいそう驚いた。しかし、ジェラルドが申し出てくれなかったら、自分も似たような状態で旅をしていたかと思うと、とても他人事とは思えなかった。
「もしよろしければですけれど、お友達になりませんか」
「ぜひ、お願いするわ。ヴァイオレット様とお呼びしても良いかしら」
それほど社交的でなく同年代の女友達がいないヴァイオレットは突然の申し出に面食らった。それを別の意味に取ったのか、彼女は言葉を貴族向けに切り替えた。
「失礼をいたしました。”レディ”とお呼びすべきだったかしら」
ヴァイオレットはあわてて訂正した。
「いいえ。わたくしは貴族ではありませんもの。”様”も不要ですよ」
「良かった。堅苦しいのは嫌だったの。ではヴァイオレットと呼ばせてちょうだい。私のことはアイリーンと」
輝くような笑顔でそう言われて、ヴァイオレットは”様”ではなくて”さん”程度の敬称で……と提案するタイミングを逸した。
「ありがとう、アイリーン」
「嬉しいわ、ヴァイオレット」
なんだかくすぐったい気分になってヴァイオレットはくすくすと笑った。
「不思議な感じね。子供時代に戻ったみたいだわ」
「あなたはとても可愛らしい方ね」
アイリーンは、傍らで紅茶のおかわりを注いでいた従者に同意を求めた。
「ね?あなたもそう思うでしょう?」
「はい。ヴァイオレット様はたいそう可愛らしいです」
「ブレイク」
真面目な顔で即答した従者に、ヴァイオレットは非難の眼差しを向けたが、その頬はうっすら赤かった。
従者は胸に手を当てて「失礼いたしました」と一礼した。
「ウィステリア様は、慎ましやかながら女性らしい優しさや愛らしさに溢れたたいそう魅力的なご令嬢です」
そうじゃない。
ここが人目のある開放的なテラス席ではなかったら、ヴァイオレットは頭を抱えていただろう。
アイリーンは従者を見て、真っ赤になったヴァイオレットを見て、もう一度、従者を見た。
「……なるほどね?」
「待って、違うの。彼は行儀見習い中でまだ色々とわかっていないのよ」
ヴァイオレットは、この困った従者はジェラルドの従者で、彼女は彼にマナーと一般教養を教えるよう頼まれているのだと、一生懸命に説明した。
ここでは落ち着いて話ができないからと、アイリーンはヴァイオレットを自分の船室に招待した。
アイリーンの船室は、もともと貴族の叔父夫婦と乗船する予定だったためか、ヴァイオレットの部屋よりもゆとりがあり、寝室とは別に応接室があった。
アイリーンは場所を変えても、先程の話題を持ち出した。
「マナーと一般教養をお勉強中ということは、ちょっとしたピグメイリオンね……ピュグマリオーンだったかしら。男女はあべこべだけれど」
アイリーンは王都でそんな戯曲を見たと言って笑った。
ヴァイオレットは似た名前の古典伝承は読んだことがあったが、王が古代神の奇跡を賜る話で、お勉強会と関連があるようには思えなかった。
「子供の頃、神話集でピグマリオンという話をみたことがありますがそれとは違うようですわ。どういうお芝居でしたの?」
「古典オペラを今風の滑稽劇に焼き直したものよ。他愛のない話。学者が花売り娘を教育するの」
「それなら確かに男女は逆ですね」
ヴァイオレットは、部屋の隅で大人しくしている従者をちらりと見た。アイリーンもヴァイオレットの視線を追って、同じように従者に目をやった。
従者はまったく素知らぬ顔で、彫像のように静かに扉の脇に立っていた。アイリーンの顔にゆっくりと笑みが広がった。
「面白そうね。私もそのお勉強会に参加させてもらってもいいかしら」
アイリーンは、従者の教育も面白そうだが、ヴァイオレットの一般教養の講義も聞いてみたいと身を乗り出した。
「子供の頃から古典を読んで育った方なら、きっと興味深いお話をたくさんご存知だわ」
「そんな、買い被りですわ。わたくし、主家のご子息の家庭教師だったので、ご令嬢向けのお話はあまり存じ上げておりませんの」
「あら、女子向けの教育でなくていいわ。そんなのはお腹いっぱいだから」
「でも古典神学はまだしも、歴史や地理を含めた国際政治、それに科学や数学などのお話ではつまらないのでは?」
アイリーンは目を丸くしてしばらく唖然としたあとで、ヴァイオレットの手を取って両手でしっかりと握りしめた。
「素晴らしいわ!そういうお話ができる同年代の女性なんていなかったのよ。男どもはみんな色眼鏡で見るか、まともに教える気がない奴ばっかりで腹が立って」
彼女の美貌を考えれば、さもありなんという感じだった。授業料は払うというアイリーンに、ヴァイオレットはお友達とお話するのにお金は取れないと断った。
「それなら、朝食を一緒にいかが?私のこのお部屋にいらして。ルームサービスを取りましょう。天気が良ければ今朝のようにデッキのラウンジに行っても良いわ」
「それは嬉しいけれども、そこまでご好意に甘えるわけには」
戸惑うヴァイオレットに、アイリーンは「得をするのはどう考えても私だから気にしないで」と言ってウインクした。
「それに……」
アイリーンは少し声を落とした。
「私とあなたのお勉強会に従者の彼が付き添っている体裁のほうが、あなたと彼が二人きりになるより外聞は良いわよ」
言われてヴァイオレットははっとした。ジェラルドが乗り気ではなかったので、彼の部屋は使えない。しかし、ヴァイオレットの船室はベッドと小さなテーブルセットがある程度だ。そこに毎日、長時間二人でこもるのは、世間体として絶対によろしくない。
結局、3人でのお勉強会は、午前中の早い時間帯、……朝の遅いジェラルドが起き出してくるまでの間に、アイリーンの船室で行うことになった。
逆マイフェアレディ……地味でゴツい男が教育される側とか、育成しがいがないにも程がある。




