生徒
1等船客用の展望デッキは、朝日できらめいていた。
「もうすっかり陸は見えないのですね。もっと海岸線に沿って進むのだと思っておりました」
ヴァイオレットは、展望デッキの外縁に作られたプロムナードを歩きながら、見渡す限りの青い海原に感嘆のため息を漏らした。
斜め後ろに控えた従者は、巨大な3本の煙突からたなびく煙を見上げた。
「潮風が少々きついですね」
「ずっと船室でしたから、心地よいですわ」
「長時間はお体を冷やします。この先にサンルームのようなテラス席がございますから、そこでご朝食はいかがですか」
「ジェラルド様もご一緒の方が良いのではないかしら」
「お気遣いなく。旦那様は一般的に朝食という名称の食事が供される時間帯には起きてまいりません」
「そ、そうですの……」
ジェラルドのあまりに不摂生な生活習慣に、ヴァイオレットはコメントに詰まった。
「そういえば、秘書の方のお加減はその後、いかがですか?昨夜は随分苦しんでいらっしゃったようにお見受けしましたけれども」
ヘルマンは船が出港してまもなく船酔いにかかり、晩餐の前にはすでに青い顔をしていた。
「お陰様で、落ち着いたようですよ。今は眠っておいでです」
吐くものは全部吐いて、明け方近くにようやく気絶するように眠ったというのが実状だが、従者は優しいヴァイオレットに要らない心配をさせる気はなかった。
「旦那様がお目覚めになる頃には、きっとヘルマンさんも起きられるようになりますよ」
二人のためには後でルームサービスで軽食を取れば良いといって、従者はヴァイオレットをガラス張りのティーラウンジに案内した。
温室のように壁と天井がガラスで覆われた半屋外のティーラウンジは、暖かく快適で、景色も良かった。
「素敵なところね」
ヴァイオレットは、ジェラルドの従者に椅子を引いてもらって席についた。
「朝食は王国式になさいますか?大陸式になさいますか?シダール風もご用意できるようですよ」
「軽くで良いので王国式でお願いするわ。シダール風は興味はあるけれど、あちらに行けば毎日になるから」
「お飲み物は?」
「紅茶を」
従者はラウンジの給仕を呼び止め朝食を用意させた。
彼は運ばれたティーポットから紅茶を注いで、ヴァイオレットの前にそっと置くと、神妙な顔で彼女の斜め後ろに下がって直立した。
「ここまでで採点お願いします」
背後から彼女にだけ聞こえるような小さな声でそう言われて、ヴァイオレットは小さく微笑んだ。
「60点」
「低っ!」
「今ので10点減点。常に冷静に礼儀正しく、ですよ」
「承知しました。マダム」
「朝食をいただいた後で講評をいたしましょうか」
「よろしくお願いします。……ちなみに何点満点で合格点は何点なのでしょうか?」
「もちろんどちらも100点です」
「……承知しました。マダム」
気長に頑張りましょうね、と優しく声をかけてくれたヴァイオレットに、従者は深々と頭を下げて、また減点された。
「相手の身分や場所、状況にそぐわない過剰な振る舞いは、周囲に誤解を与えたり、滑稽に映ったりして、かえって主人に恥をかかせることにもなります」
「はい」
「あなたは無頓着な部分と過剰に恭しい部分が混在していますね」
ヴァイオレットは頬に手を添えてわずかに小首を傾げた。
「あなたにマナーを教えた方は、一体、あなたがどなたに仕えることを想定なさっていたのかしら」
彼の態度には、まるで高位貴族やその奥方相手にするような作法が散見された。
「わたくしはあなたの主人ではなく、貴族でもないので、仰々しすぎる態度はふさわしくありません。このように知らない人同士がこれから交友関係を作ろうとしている場では特にです」
お忍びの貴族の奥方だと思われてしまいかねないと、ヴァイオレットは眉を下げた。
「それはなかなか面白い誤解ですね」
反省の足りない従者を、ヴァイオレットは咎めるように見上げた。
「それだけではなくて」
彼女は手招きして彼を近くに寄らせ、声をひそめた。
「あなた、妻や恋人をエスコートする場合の振る舞いまで時々混ぜていますからね」
しかもかなり甘々な恋愛関係の場合の、である。
ジェラルドのような色男がやるのではなく、この堅物そうな男が無表情なままで、ふいにとんでもなく甘く色めいた行動を混ぜてくるのは、心臓に悪かった。
不適切なあれこれをまとめて思い出して、ヴァイオレットはほんのりと頬を染めた。
「それは……よろしくないですね」
従者がそんな態度を取っていたら、される誤解は甚だしく世間体の悪いものになりかねない。
大柄な青年は、身を縮めて恐縮した。
あちこちで身につけた作法が混ざって、おかしなことになっているようだと、従者は肩を落とした。
「一つ一つ検めていくしかないですね」
「ご指導、ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます」
すっかりしょんぼりした従者が可哀想になって、ヴァイオレットはうつむき気味の彼の顔を、優しい眼差しで下から覗き込んだ。
「そんなに気を落とさないで。けして筋は悪くないのよ。あなたの発音はとてもきれいだし、聞き取りやすい良いお声だわ。姿勢や動作も素敵だし、バランスの良いしっかりした体型をなさっているから、所作が映えて大変美しいと思いますもの」
「無理に褒めなくて良いです」
従者は仏頂面のままで、きまり悪そうに少し横を向いた。
「無作法をしていたら遠慮なくその都度注意してください」
「では、こちらを向いて」
「……はい」
困りきった顔をした彼にヴァイオレットは微笑みかけた。
「それでは今度から、危ういところがあったら一声かけますね。名前だけ呼ばれて具体的に何も言われなかったら、心当たりを反省なさい。それで何が悪かったのかわからない場合は後で質問すれば良いですから」
「ありがとうございます。ロイと呼ばれたら気をつけます」
「ロイ?ブレイクではなくて?」
ヴァイオレットは不思議そうに尋ねた。
「名前……と」
一瞬、きょとんとした青年は「ああ」と言って頭を下げた。
「失礼いたしました。”ブレイク”でお願いします」
そのあわてようが面白くて、ヴァイオレットはくすりと笑った。
「ロイというお名前なのね」
「ここでは使われておりません。旦那様からはブレイクと呼ばれております」
破落漢だからかもしれません、と従者は小さな声でボソリと付け足した。
「そんなことはないと思いますよ」
ヴァイオレットは、この大きな従者が可哀想に思えた。どういう経緯で従者になったのかは知らないが、自分の本来の名前を呼んでもらえる機会は今はないのだろう。名前を呼んであげたいが、それが叱られる時ばかりというのはあんまりだろう。
「ならば、そうですね……こういたしましょう。あなたを叱る場合はブレイク、褒める場合はロイと呼びます。いいですね」
「あまりロイと呼ばれる機会はなさそうです」
「それはもちろん他人の耳目がある場で、従者のマナーが正しいと褒めるなんてことはありませんから」
あっさり言われて、がっがりしたらしい青年は「ああ、やっぱり」とため息をついた。
ヴァイオレットは微笑んだ。
「だから、良かったところは後で二人のときにこっそり褒めてあげますね」
彼女の大きな生徒は、びっくりしたのか、恥ずかしそうに小さく礼を言った。
明るくて暖かなティーラウンジでくつろぎながら、詳細の講評に移ろうとしたヴァイオレットは、ラウンジの出入口付近で一人の女性が男に絡まれているのに気づいた。
その華やかな美女は、昨日助けたあの車の女性のようだった。相手の男は一等船客には違いないだろうが、鷲鼻の厳つい容貌でいささかこの場に不似合いな人物だ。どうやら親しいとか、面識があるとかいう間柄ではなく、一方的に男が話しかけて女性側は迷惑に思っているようである。
ヴァイオレットは少し迷ったが、傍らに控えた従者に声をかけた。
「あちらの御婦人をこのテーブルにお誘いして」
「はい。マダム」
従者はヴァイオレットの視線で状況を正しく理解したらしく、まっすぐにその女性の方に向かった。




