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家に帰るまでが冒険です  作者: 雲丹屋
第10章 太陽の炎が消えた時

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課題

南方のシダール行きの蒸気船は、なかなか立派な大型客船だった。

超一流の豪華客船というわけではなかったが、貴族を含む富裕層が数週間を過ごすのに足る設備とサービスを備えており、1等船客に優雅で快適な旅を提供できる船だ。


「大きな船ですのね。わたくし、これほど大きな船とは思っておりませんでしたわ」

ヴァイオレットは、港で蒸気船を見上げて、その大きさに驚いた。

「正直、私も帆船程度の大きさを考えておりました」

合流した秘書のヘルマンは、一同を乗船口に案内しながら、同じように、黒い船体を見上げた。ジェラルドは素直な二人の反応に笑顔になった。

「河川用の外輪船ではなくて、本格的な外洋航路の蒸気船だからね。全長だけでも軍用の快速帆船の倍はあるよ」

「乗船券の確認で、乗客数が千人超えだと聞いたときは耳を疑いました」

「このように大きな鉄の塊が浮くなんて、浮揚力の話を知識としてはわかっていたつもりでも、実際に見るとつい不思議に思ってしまいますね。お坊ちゃまに偉そうに講義しておきながら、なんてことでしょう。やはり知識と経験は別物ですね」

「おや、ヴァイオレットはそんな教科も教えていたのかい」

「ええ。と言っても、坊っちゃんが行った学校の初年度で習う基礎ぐらいまでしか教えられなかったのですが、一応、一通り全教科をまんべんなく受け持っておりました」

「では僕もこの旅の間にあなたから色々教わろうかな」

スッと身を寄せて、無駄に色っぽい声でそう囁いたジェラルドは、ふいに背後に圧迫感を感じた。

「旦那様、荷物の手配をしてまいりました」

重低音に振り返ると、無愛想な従者がいつの間にか真後ろに立っていた。ジェラルドは従者の無言の圧に負けて、さり気なくヴァイオレットとの間に”適切な”距離を設けた。


「航海中に勉学に励まれるなら、なにかテキストを購入して参りましょうか」

ガチの勉強を強要されそうな風向きにジェラルドは焦った。美人の家庭教師の先生をからかいながら二人っきりで楽しくお喋りしながらお勉強するのと、この強面の従者に見張られながら小難しい本の中身を詰め込まれるのでは、雲泥の差がある。

「ブレイク、テキストを買うのなら、むしろ君向けの一般教養とマナーの本の方が必要なんじゃないか」

矛先をかわして学習計画を却下しようとしたジェラルドの試みは、「自分のための本を購入して良いのですか?」と嬉しそうに言い出した従者によって頓挫した。

そこにさらにヴァイオレットが、基礎的なマナーや一般教養なら自分が教えても良いと言い出して、事態はジェラルドの想定外の方向に転がりだした。


「ありがとうございます。では書店に行ってまいります」

「わたくしも一緒に参りますわ。どのような本が良いかわからないでしょう?」

「はい。よろしくお願いいたします」

「ジェラルド様、では行ってまいりますわね」

「すぐに戻ります」


あれよあれよと言う間に話がまとめられて、気がつけばヴァイオレットと従者は本屋に行くことになってしまっていた。

従者は、恐ろしく真摯かつ恭しいほどの丁寧さでヴァイオレットを伴って、意気揚々とでかけていった。


「あー……彼は、向学心が高いようですね」

ヘルマンはどうフォローしたものか迷った挙げ句、ジェラルドにそう声をかけた。

「それに敬意のあるなしで如実に態度を変える奴だ。……くそう。あいつ、僕に対しての態度が一番雑なんじゃないか?」

「そんなことはないですよ。私も最初の晩は相当雑に扱われましたから」

ヘルマンは、縛られたまま雑嚢のように担がれたことをしみじみ思い出した。

「君は最初っから、あいつに随分気に入られていたじゃないか。なんで知らない間にファーストネームで呼ばれているんだよ」

「えっ?いや、それは?」

実は一番最初に酔っ払った勢いでヘルマン自身が、そう呼ぶように強要したせいだったのだが、その晩の記憶がすっかりないために、ヘルマン自身もさっぱり理由はわからなかった。

「今はそんなことはないですよ」

ジェラルドは疑わしそうな視線をヘルマンに向けた。

「ブレイクは僕の従者だからな。あまり勝手に手懐けようとはするなよ」

ヘルマンは銀縁眼鏡の下で目を剥いた。

「ホーソン様、アレを手懐けるとか私には絶対ムリですからね。むしろ手綱は貴方様が全面的にきちんと握ってくださいよ」

「無茶を言うな!」

思わず本音が口から出たジェラルドと、「ああやっぱり無理なんだ」という顔をしたヘルマンは、しばし黙って顔を見合わせた。

ひょっとしたら慎ましく淑やかなヴァイオレット嬢が、あの非常識従者に常識と節度とマナーを教え込んでくれるかもしれない。

二人は若干投げやりな気分で希望的観測を共有した。

「乗船口に参りましょう」

「そうだな」

1等船客用の乗船口までは、さほど距離はなかった。




乗船口前に用意された待合室でジェラルドは意外な人物を見つけた。

「また、お会いしましたね」

そこにいたのは、ここに来る前に助けた女性だった。青いドレスは旅装に改められており、帽子とベールも屋内用の軽いものに変わっていたが、彼女は間違えようのない存在感を放っていた。

「まぁ、あなたもこの船に?」

ジェラルドはこの美女が今日中にリージェントポートに来たがっていたことや、道中の会話の端々から、彼女がこの船に乗るのであろうことは予測していたが、さも驚いたかのように振る舞って、予想外の奇跡的再会を喜んでみせた。

ジェラルドは彼女の髪が美しいプラチナブロンドであることや、屋内用の薄いベール越しに見える目が綺麗な青であることを詩的に褒め称えながら、歯の浮くようなセリフを並べた。

ジェラルドの対女性用美辞麗句てんこ盛りご挨拶は、これまで彼女と同年代の女の子たちを片っ端からうっとりさせてきた。しかし彼女は明らかに照れも媚びも戸惑いすらもない態度で、さらりとジェラルドの挨拶を受けた。

「お連れの方は?」

「これはうちの秘書です」

ジェラルドはあまりの手応えのなさに肩透かしを食らった。

面白くない気持ちでヘルマンを紹介し、ヘルマンが定形通りに挨拶を交わしたところで、ジェラルドは、彼女に再戦を試みた。

昼間の待合室よりもどちらかというと夜会向きの声や態度で、少し強めに押してみる。自分の魅力の使い方をよく知っているジェラルドが、これでどうだ!と試した結果は……やはり空振りだった。

彼女は、無知や鈍感なふりをするわけでも、反発や嫌悪を見せるわけでもなく、ただ嫣然と微笑んでジェラルドの口説き文句を華麗にスルーした。

挙げ句に「お連れの女性は、どちらにいらっしゃるのかしら。ぜひご挨拶させていただきたいわ」などと言い出して完全に予防線を引いてきた。

ジェラルドは初戦での完敗に内心で地団駄を踏んだが、社交的な笑顔を崩さず、なんとか無難な回答を返した。


「そう、それは残念ですわ。では、またの機会に」

彼女は、その場にふさわしい軽い挨拶を、王侯貴族でしかありえない優美な所作でして立ち去った。


「……どこのご令嬢ですか」

「姓はアドラー。有名な家ではないね。貴族籍にはないので”レディ”の尊称は不要だと言っていた。叔父上は資産家のナイト爵らしい」

「はぁ、そうなんですか。いやぁ、公爵令嬢かどこかのプリンセスで通りますよ」

失礼にならない程度にこっそり視線で彼女を追いながら、ヘルマンはため息を漏らした。

「長い船旅の間の、いい課題ができたな」

ジェラルドは色男のプライドにかけて、完全勝利を心に誓った。

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