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家に帰るまでが冒険です  作者: 雲丹屋
第10章 太陽の炎が消えた時

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秘書

リチャード・ヘルマンは努力家だった。あまり恵まれた生まれではなかったが、必死に勉強し、若くして、かの有名なグートマン卿の個人秘書の一人にまで成り上がった。もちろん経営や事業の運営に関しては、もっと年上で実力も実績もある秘書団がいて、ヘルマンが口を挟む余地はない。その分、ヘルマンは卿のかなりプライベートな雑事に関わる機会が多かった。


"太陽の炎"の一件は、その中でも極めて特殊な案件だった。

ヘルマンは、常とは様子が違うグートマン卿に気を揉みながら、不可解な指示にいくつも従った。卿が表だって会うわけにはいかないような相手との交渉も務めた。

自分の倫理観を曲げざるを得ないこともあったが、ヘルマンは、自分の実力を認めて重用してくれる卿の役に立ちたかった。

詳しい事情は明かしてはもらえないものの、グートマン卿にとってかなり重要であることは間違いない問題を一手に任してもらえていることは誇らしかったのだ。

それなのに……。




「それで、どうするんだ?こんなの」

金髪の青年は、物凄く迷惑そうにヘルマンを見た。整った明るい顔立ちなのでそんな表情でも嫌みがなくて見場がいい。"こんなの"呼ばわりされているのが自分でなければ、暖炉の明かりに照らされたその姿は絵のようだと思っただろう。

「うちにおいてもいいですか?世話はちゃんとします」

とんでもないことを言い出したのは黒髪の従者だ。こちらは、印象に残らない地味な男だが、言動はでたらめだった。

「ダメだ。余所んちのじゃないか」

主従揃って、まるで中産家庭の子供が、拾った猫を飼いたいと言い出した時のような物言いだ。

グートマン卿の重要な個人秘書である自分をなんだと思っているのかと、ヘルマンは憤慨した。


「でも、彼をこのまま返すわけにはいかないでしょう」

低い声で呟かれて、ヘルマンの背筋に冷たいものがはしった。

「繋がりのある裏の輩からは金蔓のカモ認定されているし、そこの対抗勢力からも横取りして脅迫すれば色々有効に使える美味しい獲物だと思われてマークされてます。今回、手を出してきたのは対抗勢力の一派ですが、石の交渉が打ち切られるとわかったら、今まで彼を守る側だった交渉先まで食いに来ますからね。そうなれば雇い元に切り捨てられる可能性が高い」

「それは仕方ないだろう。半端に内情を知っていて、脅迫のネタになる手駒は、実業家には危険だもの。関係がこじれた裏組織と手を切るなら連絡係は捨てるのが常道だよ。グートマン卿もいつでも切れるように、こういう若手に単独で対応させてたんじゃないかな」

ごく平静に恐ろしいことを言われて、ヘルマンは青ざめた。これまでの自負や自信が砂のように崩れていく気がする。グートマン卿にとって自分は捨て駒だったと認めたくはなかった。

「可哀想じゃないですか。真面目な人なのに」

得体のしれない怪力の従者は、ヘルマンの顔色が悪いことに気付くと、彼の体を押さえ込んでいた手の力を弱めて、猿ぐつわをほどいてくれた。


「ご主人様は私を……き…切り捨てたりしない」

ヘルマンは吃りながら、必死でうったえた。たしかに失態は犯したが、まだ挽回できるはずだ。

「そうかな?どうだろう?」

華やかな金髪巻き毛の青年はやや意地の悪い口調で揶揄した後で、ふっとどうでも良さそうに肩をすくめた。

「そうかもしれないね。グートマン卿は温厚な篤志家だし。なぁ、ブレイク。本人もこう言っているし、普通に帰してやれば何事もなく収まるんじゃないか?離してやれ」

青年の言葉に、ヘルマンはガクガクと頷いた。

「ご命令でしたら……」

従者はしぶしぶヘルマンの縄を解いた。


窮地を脱したとほっとしたヘルマンは、自分がここまで来た用件を思い出した。

「そ、そうだ。お願いがあるんだ」

彼はなりふりかまわず、わずかな希望にかけた。

「頼む。どうか中身を、あのケースの中身を返してくれ!」

「ん?」

青年は怪訝そうに首を傾げた。

ヘルマンは今度は隣にいる従者にすがりついた。

「最後に私が持ってきた宝石入れは、空きケースではないんだ!中身が!宝石が入っていて……」

ヘルマンの訴えに、主従は顔を見合わせた。

「嘘じゃない。確認して欲しい。金庫から持ってくるとき中を見たんだ。確かに"太陽の炎"にそっくりの赤い宝石が入っていた。空きケースだと思ったのはご主人様の覚え違いかもしれない。とにかく私のミスで、ご主人様の想定外の中身まであなたに渡してしまっては申し訳がたたない。ケースが必要ならもちろんそのままそちらで使っていただいてかまわない。どうか中身を返してくれ!」

早口で捲し立てたヘルマンを、主従は微妙な顔で見つめた。


「……え、本気?」

「真面目な人なんです……素面でここまでとは思いませんでしたが」

それにしてもこれは察しが悪くないか?などと言われたところをみると自分はまたなにか失敗したらしいとヘルマンは焦った。昔から堅物で融通が聞かないだの、察しが悪いだの言われ、額面通りに物事を受けとり過ぎるのを止めろとよく叱られた。仕事についてからはできるだけ主人の指示の裏も察して動くよう心掛けて来たのだが、今回はどこが悪かったというのか。


「あー、ダメだこりゃ。本気で全然分かってないぞ」

「ね?心配でしょう?」

黒髪の従者は、心配してくれているのか面白がっているのかよく分からない感じで、長椅子の後ろからヘルマンの両肩に手を置いた。彼の主人の方はひどく難しい顔でこちらをみた。

「なんでまたお前は、そこまでそいつに肩入れするんだ?」

「昨夜、生い立ちとか悩み事の相談とか、いろいろお話を伺ったらなんとなく申し訳なくなりまして」

「昨夜?」

ヘルマンは首をひねって、従者を見上げた。昨夜はうっかり飲み屋で深酒をするという人生初の大失態をおかして記憶が一部定かでないが、こんな奴に悩み事を相談した覚えは……。

「あああああっ!?髭の人か!髭は?」

「つけ髭です。気づいてなかったんですか」

「えええ。……髭の印象しかなかった」

ヘルマンは上を見上げたまま呆然とした。


「なんだか、このまま彼に石を渡して持ち帰らせたら、何がどうなるか見てみたくなってきた」

「これ以上、事態をややこしくしてどうするんですか。とにかく今夜はもう遅いですから、旦那様はそろそろお休みください。彼は明日の朝一番でグートマン邸に送ります」

「いや、わざわざ送っていただかなくても一人で帰れるから」

あわててそう主張したヘルマンの両肩を大きな手が押さえつけた。

「またその辺の路地裏で襲われたら助けるのが面倒だからやめてください」

助けなくていいんじゃないか?と薄情に言う主人を無視して、黒髪の従者はヘルマンに今夜はこの家の屋根裏部屋で寝るように告げた。

「おい、ブレイク!それはちょっと……。客間でいいだろう?」

「旦那様の寝室のお隣なんて使わせられません」

「だからといって……」

渋る主人を押しきって、従者はヘルマンを強引に屋根裏部屋に押し込んだ。

ヘルマンは埃っぽい物置を覚悟したのだが、そこは意外にまっとうな使用人部屋だった。そこそこの広さできちんと掃除されている。物は少なく殺風景だが、大きめのちゃんとしたベッドにかかったシーツは清潔そうだ。

変に逃げようとして、物を壊すなと言い残して、従者は部屋を出ていった。


ヘルマンは逃げ出した方がいいのか迷って、部屋をうろうろと歩き回った。

「(やはり、逃げよう!)」

思い立って、ドアノブに手をかけたところで、目の前で扉が開いた。

至近距離で仏頂面の従者に見下ろされて、ヘルマンはたじろいだ。

「あの……用足しを……」

「案内する」

持っていた水差しを室内に置くと、従者はヘルマンをバスルームにつれていった。


「服はここに掛けておく。明朝、迎えにくるまで部屋をでないように」

丈の合わない寝間着に着替えさせられ、ベッドに押し込まれたヘルマンは、すっかり逃亡の意欲を削がれていた。今日は二日酔いと寝不足で朝から頭痛がしていたのだが、さらに疲労と心痛で、もはや朦朧としてきた。

「こんなところで悪いが、ゆっくり休んでくれ」

眼鏡をそっと外されて、ヘルマンはわずかに抵抗しようとした。

「リチャード。目の下の隈が酷いぞ。まずは寝ろ」

結局、抵抗はかなわず、彼はすぐに寝落ちしてしまった。




「で、なんでそいつまだいるの?」

起き抜けのジェラルドは不機嫌に眉を寄せた。

「朝一で帰すって言ってただろう」

「はい。朝一でグートマン邸には行って参りました」

従者は主人の機嫌などまるで頓着せずに、軽食をテーブルに並べた。

「そうしましたら、グートマン卿が是非にと仰いまして」

従者が差し出した手紙を、ジェラルドは面倒そうに読んだ。

本物をあるべきところに戻すために使って欲しいというメッセージに、グートマン卿のサインが入っていた。

「こちらと彼をセットで提供いただきました」

従者は重量のある革袋をテーブルの端に置いた。ジェラルドは嫌々、袋を引き寄せて、中を覗いた。

「うわぁ……今時、金貨かよ」

「さすが銀行家ですね」

主従は部屋の隅で直立している男を見た。

「迷惑料?預り賃?」

「いいじゃないですか。旦那様も、ご婦人とご旅行をなさるなら一人くらい秘書がいた方がよいでしょう。私は常識が足らないので諸々の手配や社交のサポートは不得手ですから」

「ああ、うーん」

気乗りのしない返事のジェラルドのカップに、従者はコーヒーとミルクを注いだ。

「ご主人様の命で今後しばらくの間ご同行させていただきます!微力ながら精一杯勤めさせていただきますので、何なりとお申し付けください。よろしくお願いいたします!」

堅苦しく深々と礼をする秘書に、ジェラルドはうんざりとした顔で「よろしく」と応えた。

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