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家に帰るまでが冒険です  作者: 雲丹屋
第9章 それはいつまでも続くと思っていた刹那

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小話: 塔の少年と烏③

ある夜、眠れないままベッドに横たわっていた僕は、窓から何者かが入ってきたのに気がついた。

満月が近い月の光に照らされたその姿は、人でありながら人のようには見えなかった。大きな体躯は真っ黒だったが光の加減で微かにキラキラと光り、所々に金色の紋様が走っていた。顎から口元にかけては人間と同じだったが、顔の上半分は黒くて鳥の羽に被われていた。目元から顔の脇には黒と金の大きな飾り羽根があってとても綺麗だった。片方の肩にも飾り羽根があったが、翼はないようだ。


黒い鳥の怪物は物音1つ立てずに、僕の傍らに来た。僕は恐ろしくて眠ったふりをした。

怪物は大きな手を伸ばして、僕の腕に触れた。

「ずいぶん痩せているな」

低い声の呟きは機嫌が悪そうだった。

「……それに臭い」

僕は恥ずかしくていたたまれなかった。塔の上のこの部屋は、沢山階段を上がらないといけないので、あまり水を持ってきてもらえないのだ。

怪物は僕の服をつまんで捲ろうとした。

「やめて」

僕は震えながら小さな声で言った。

「僕を食べちゃダメ」


怪物は手を離した。僕はそっと目を開けて怪物を見た。怪物は不快そうにして1歩下がると腕を組んだ。

「お前を食べたりしない」

「僕は……"古き一族"に捧げられる貢ぎ物だから、僕を食べると"古き一族"に恨まれるよ」

怪物は不愉快極まりないといった様子で、喉の奥で低く唸った。

「どうかしている。百歩譲ったとしても、貢ぎ物ならもっと綺麗にしておくべきだろう。なんでこんなにガリガリで、不衛生にして放置しているんだ。あり得ない」

怪物は吐き捨てるように悪態をついた。

「……すみません」

「お前が謝るな」

僕は恐ろしくて身を縮めた。

怪物は1つため息をつくと、僕の傍らに身を屈めた。

「すまん。お前が悪いんじゃない」

怪物は僕の頭を撫でた。

「怖い声を出して悪かった。俺はお前を食わない」

僕はこわごわと怪物の顔を見た。黒い羽に被われた顔のなかで、目の部分が緑色に光っていた。

「食わないから、服を脱げ」

僕は震え上がった。


僕の服を持ってどこかに消えた怪物は、たらいと清潔な布を沢山持って帰って来た。僕はごしごし洗われ、拭かれて、ブカブカの白い大きなシャツを着せられた。

「お前、腹は減っているか?」

不機嫌そうな怪物は、ぼんやりしていた僕にそう尋ねた。僕はどう答えれば正解なのかわからなくて首を振った。

「待ってろ」

怪物はたらいと汚れた布を持って消えて、今度はいつかのあの果実を持って帰って来た。

怪物はナイフを取り出して、果実を一切れ削いだ。とても甘い香りがした。

「これなら食べられるか?」

怪物は僕に果実を差し出した。


絶対に食べてはダメだと思ったけれど、その香りにお腹が大きな音をたてて鳴った。怪物は僕の口元に実を差し出し、僕はたまらず食いついた。

一口食べてしまえばあとは止まらなかった。

満足するまで食べた僕の口の周りを拭うと、怪物は僕に着せていたシャツを脱がせた。

裸のお腹がぽっこり膨らんでいて恥ずかしかった。

「どうするの?」

「汁が垂れて汚れたから洗う」と、怪物は答えた。僕のことではなく、さっき脱がせたシャツのことのようだ。

怪物は汗臭くなくなった僕の服を持ってきて、僕に着せた。いつの間に洗って乾かしたのかわからなかったけれど、ふんわりして少し暖かかった。

「きれいにして太らせてから食べるの?」

「しつこいな。俺はお前を食べないと言っているだろう。もう寝ろ」

怪物は辺りを拭いて、片付けると「お休み」と言って消えた。


怪物は翌日もやって来た。

僕の体や服をきれいにして、食べ物を与えて、「具合の悪いところはないか」と尋ねた。

口を開けろと言われて、無理やり押さえつけられて口に指を突っ込まれたときはもうダメかと思ったが、怪物は変なブラシで僕の歯をごしごし磨いただけだった。

怪物は香りのついた水で僕にうがいをさせると、「少しはマシになった」と満足そうに言った。


「君は"古き一族"に命じられて、僕をマシにしに来たの?」

「そんな奴らは知らん」

僕が話しかけると、怪物はすぐに不機嫌になった。

「ごめんなさい」

「お前が謝るな」

どうすればいいのかわからなくて、僕は途方にくれた。

「俺はお前を食わないし、"古き一族"とやらにお前を食わせるつもりもない」

「"古き一族"は、僕がやせっぽちでみすぼらしいみそっかすだから、僕を望まないよ」

黒い鳥の怪物は月の光が落ちる闇のなかで、腕を組んだまま低く唸った。

「最悪だ。胸くそ悪い」

僕がみそっかす過ぎてあてが外れたのだろうか、怪物はひどく怒った様子だった。

「ごめんなさい」

「お前が謝るな」

怪物は顔をしかめて窓の外を見た。

「お前が謝るな。お前が悪いんじゃない」

月の光に照らされた目は緑色に光っていなくて、悲しそうな人の目のようだった。


その翌日、儀式のために神殿に向かうときに、僕は怪物にお別れが言えなかったのを残念に思った。




その翌年、塔にやって来た僕は、記憶にあるよりも小部屋がきれいなように感じた。

きれい好きな鳥の怪物を思い出して、僕は寂しくなった。何も言わずにお別れしたから、怪物は僕が"古き一族"につれていかれたと思ったかもしれない。実のところ、去年はついに見放されたのか、儀式の間中、"古き一族"は誰1人僕を見に来もしなかったのだ。

僕は持ってきた本を読みながら、時折、窓の外を眺めて、静かに1日を過ごした。


夕方、僕は食事係に言って、桶一杯の水と手拭いを持ってこさせた。汗を拭って最低限の身だしなみを自分で整える。

夜になって月が昇ると、ベッドから窓の外を見て過ごした。

うとうとしたところで、黒い影がいることに気がついた。

「また来たな」

僕が起き上がると、怪物は低い声でそう言った。良く見ると目の横辺りから頭の脇にスッとのびていた黒と金色の綺麗な飾り羽根が無惨に千切れていた。

「羽根……どうしたの?」

「ああ、これか。なんでもない」

「綺麗だったのに」

「気に入っていたのならすまんな」

彼は僕の様子を確認し、空腹ではないかと尋ね、部屋を片付けて去っていった。


翌朝、手桶に水を汲んで塔の部屋に運んできたのは、あの小舟の髭男だった。重い水桶を持って階段を上がるのを嫌がった城の下男が、面倒な仕事を髭男に押し付けたらしい。

髭男は黙って水桶を部屋の隅に置くと、着替えの服を僕に手渡した。

この塔で着替えなんて与えられたのは初めてだったので、僕はびっくりした。粗末な服はあまり僕のサイズにあってはいなかったけれど、きれいに洗って畳んであった。

僕が何か言う前に、髭男は一礼してそそくさと部屋を去っていった。

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