小話: 塔の少年と烏②
夏は嫌いだった。
家訓だか先祖の誓いだかで、課せられた儀式のために、王都から離れた山奥に行かされたのだ。辺鄙な山奥にある神殿で長時間祈りを捧げる儀式。親族の一人が行けばいいという条件なのにも関わらず、ほんの幼児の頃からその貧乏くじのお務めを押し付けられていた自分は、どれだけないがしろにされていたのかという話だ。
儀式はとても嫌だったが、子供らしい元気さもなかった僕は、ただ従順に大人の言うとおりにしていた。
その年も僕はわずかな護衛の騎士だけをつけられて神殿のある山奥の城に送られた。
城は小さな湖の畔にあった。城に付くと僕は塔の上階にある部屋に閉じ込められる。儀式を前に潔斎するためだと言われたが、単に逃亡防止だろう。湖畔の城には日程に余裕を持ってくるから、月の加減が儀式にちょうど良くなる日まで、僕は数日を塔で過ごすことになっていた。
塔の部屋には湖に向かった窓が1つある。僕はぼんやりと湖を見て過ごした。湖は静かで、たまに鳥や獣の姿が見える程度で人の姿は見えなかった。
その小舟を見つけたとき、僕はとても嬉しかった。
漕ぎ手が1人乗っているだけのささやかな小舟は湖を横切って行き、窓の近くには来なかった。それでも退屈で寂しかった僕は、窓から見えないところに行ってしまうまで、ずっと小舟を見ていた。
小舟は毎朝、同じぐらいの時間に窓の前を通った。最初の日よりも近いところを通ってくれるようになって、舟の中の様子が見えた。どうやらこの城に魚や薪を運んでいるようだ。船頭は髭もじゃの大男でボロボロの上着を着ていた。
男はけしてこちらを見ようとせず、いつもただ黙々と舟を漕いでいるだけだった。
翌年も僕は塔に連れてこられた。
僕は憂鬱だったけれど、他にすることもないので、また窓から湖を見て過ごした。
髭男の小舟は、やっぱり同じように城にやって来た。荷物をおろした帰りに、髭男は初めてこの窓を見上げた。
僕はびっくりして窓から顔を引っ込めてしまった。
恐る恐るもう一度覗いたときには、小舟はもう行ってしまっていた。
翌日、髭男は僕の窓の前で小舟を漕ぐ手を一度止めて、大きな魚を掴んで僕の方に掲げてみせた。僕は意味がわからずにぼんやりと見ていた。髭男は魚を下ろすと、また舟を漕いで行ってしまった。
帰りの舟で、髭男はこちらを見上げて、拳を小さく突き上げるような仕草をしてみせた。
どういう意味なのかはわからなかったけれど、自分に向かって辛い命令ではないなにかをしてくれる人がいることが嬉しかった。
髭男はどうやら、その日の一番いい品を見せてくれているようだった。その日、彼は枝にたわわについたままの見事な果実を掲げてみせた。
塔と儀式の期間はわずかばかりのパンと水しか与えてもらえない僕は、とてもその果実を見るのがつらかったけれど、髭男が嬉しそうなので小さくうなずいてあげた。
その日の食事が運ばれたとき、微かに果実の香りがした。僕ははっとして盆の上を見たが、そこにあったのはいつも通りの硬いパンと水だけだった。果実の香りがするねと小さく呟くと、食事係はきつい目付きで僕を睨んで、気のせいでしょうと言って部屋を出ていった。
扉の向こうで「まったく犬のように鼻をひくつかせてみっともない」と吐き捨てるように言っている声が聞こえて、いたたまれなかった。
僕はその年、もう小舟を見るのを止めた。
それでも翌年になり、また塔にやって来ると、僕は小舟と髭男が気になって窓辺に座った。
髭男はこちらを見ることも魚をみせることもせず、小舟を漕いで通りすぎた。
僕はベッドに伏せてしばらくじっとしていた。胸の痛みが収まってからノロノロと起き出したときには、もう小舟はいなくなっていた。
僕は相変わらず湖を眺めて過ごしたけれど、小舟が現れると窓辺から離れるようになった。
「どんな塩梅ですか?」
帽子の男は小さな山小屋風の家の脇で川畑を待っていた。
「去年と同じように食料や薪を納品することで話をつけてきた。仕事はどうってことないが、このカツラとつけ髭が鬱陶しいな」
川畑はモジャモジャの髪と、顔の半分以上を覆う髭を摘まんだ。
外から来た人の相手をしなければいけない期間だけ仕事を変わって欲しいとうったえた依頼人が、そういう風貌だったため、川畑はやむなく変装をしていた。
「翻訳さんでごまかせないのか?」
「できますけど、ベースを似せておくとより自然になります。印象補正で済みますからね」
「この上着も嫌なんだけど」
川畑はボロボロの上着を嫌そうにつついた。洗濯、除菌、消臭はしたが基本的に汚い。
「それも着ておいてください。トレードマークらしいです。だいたい元の人と川畑さんは体格がちょっと違いますからね。背は川畑さんのがあるけど、横幅はあちらのがすごいですから。その上着でシルエットの補整が効きやすくなると思います」
「できるだけ背を丸めて動きも似せてはいるけどな」
川畑は家に入って扉を閉めてから、上着を脱いで大きく伸びをした。
「まぁ、数日のことだし我慢するか」
ふと思い出したように、川畑は振り替えって帽子の男に、城の客人について尋ねた。
「塔の窓から小さな男の子が覗いてたんだけど、あれここに来ている人んちの子供か?1人であんなところにいて危ないなと思ったんだけれど」
「さあ?私はここの詳細は聞いていないので。調べておきましょうか?」
「まぁ、いいや。旨そうな魚とか山の幸とか沢山納品したらあの子も食べてくれるかな。えらく痩せてて顔色悪かったんだよ。あれはいかん」
「はあ……現地への干渉はあまりしないでくださいよ」
「わかってるって」
川畑は動きやすい服装に着替えると、強力な人目避けを展開して、わくわくしながら森の探索に出掛けた。
「調子はいかがですか?」
帽子の男が様子を見に来ると、川畑は山小屋で項垂れていた。
「どうしたんです?」
確かけっこう張り切って魚釣りや山菜狩りに精を出していたはずだったのに元気がない。
「塔の男の子に嫌われた……」
「はぁ?」
「ずっと窓から外見ているのに、俺が行くと隠れるんだよ」
「ああ、嫌われましたね。なにしたんですか」
「窓の下通るときにちょっと挨拶を」
「鬱陶しかったんじゃないですか?むさいおっさんに毎日アピールされても嬉しくないでしょう」
「うぐぐ……髭が、髭が悪いんだ」
あさっての方角を見ながら拳を握り締める川畑の背に、帽子の男は問いかけた。
「なんでその子に拘っているんですか?」
川畑は仏頂面で不機嫌そうに答えた。
「なんかさ。幽霊か囚人みたいな顔してるんだよ。今にも死にそうというか、死んでも構わないと思っていそうというか。小さい子供がさ……気になるだろう?そういうの」
「もう直接、会いに行って普通に確認するか、城の人に聞けばいいんじゃないですか?」
帽子の男は無責任そうに適当なことを言ってから、はたと思い直したように付け加えた。
「ただし、重ねて言いますけど、現地への干渉はあまりしないでくださいよ。その髭姿で変なことをすると、依頼人に迷惑が掛かりますからね」
川畑は生返事をして、なにやら考え始めた。
「そうか。印象が変われば依頼人には影響はでないよな。髭とカツラとって、顔の上半分を隠せばいいのか」
確かレースの打ち上げパーティーの時の衣装がまだ取ってあったはず……とか言いながら姿を消した川畑に、帽子の男はやれやれと肩をすくめた。




