アンフェア
教室に入ると、朝のショートホームルームが始まっていた。
「川畑、遅刻1」
そう告げた担任に一礼して川畑は後ろ手に戸を閉めた。担任の隣に並んで立っていた植木が目を見開いた。植木は、壇上でクラスのみんなになにか話していた途中らしかったが、川畑を見て言葉が続かず、唇をわななかせた。
川畑はその様子を心配そうに伺いながら、とりあえず自分の席につこうとした。
植木の大きな目から涙が零れて、クラスの全員がぎょっとした。
植木は壇上からまっすぐ川畑に駆け寄り、シャツの胸元を両手でしっかり掴んで、その胸に額を押し当てた。
「川畑…くん……いた…よかっ…」
おし殺した声で啜り泣く植木に、川畑は激しく動揺した。
「どうした?何があった」
とにかく安心させるために植木の華奢な肩に手を添えて、声をかけてやりながら、川畑は事情を確認するためにクラス内の皆の顔を見回した。
「あー、川畑。植木は治療のために休学することになってな」
担任が、この場をどうしたものかと困ったような口調で説明してくれた。
「今日が最後の登校日なのに、君が来ないから、植木くんずいぶん心配してたんだよ」
佐藤が小声で補足してくれたお陰で、川畑は大体の状況を把握した。
「悪かった」
「もう…会えない…かと……思っ…」
「そんなわけないだろう」
「でも…あんなことになって、部屋も別れ別れで、ずっとちゃんと一緒にいられなくて、それでこのままサヨナラするなんて、そんなの……」
「大丈夫。学校や寮じゃなくたって、会おうと思えばまた会えるだろう」
川畑は植木の肩を優しくポンと叩いた。
「ほら、挨拶の途中だったんじゃないのか?みんな待ってるぞ」
「……うん」
「顔拭いて」
「…うん」
「俺はここにいるから」
「うん」
植木は川畑に渡されたハンカチを目にあてて、なんとか壇上に戻った。
「先生、すみませんでした」
担任にそう謝ると、植木は向き直って挨拶の続きを行った。
「記憶が丸一日飛ぶぐらいの重症で後遺症も残ってるから、しばらく治療に専念するっていうなら、それは是非そうしてくださいとしか言い様がないよね」
休み時間の教室で、赤松ランは手元のペンをクルクル回しながら呟いた。
「そうよね」
黒木ユリは、植木の席の方を見てため息をついた。彼の周りは、休学の噂を聞き付けて押し掛けた有象無象でいっぱいだった。
「最後に一言って気持ちはわからなくもないけど、全然、知らない相手から一方的に次々話しかけられる植木くんの気持ちを考えてやれって感じよね」
「そんな暇があったら、もっと話したい相手が他にいるのにな、あいつ」
辛抱強く愛想よく振る舞っている植木が哀れで、ランは眉を寄せた。彼女はくだんの相手がどうしているか目で探したが見当たらない。
「川畑も川畑だな。植木放っておいてどこ行ったんだ?」
「川畑くんなら、タブレットとかを学校に返したり、退寮したりするための手続きを代わりにやってあげてるらしいよ」
「それは……いつも通りというかなんというか、ぶれない世話焼きだな」
「植木は、そんなつまらない事務手続きをするより、みんなと過ごす時間を持った方がいいから、なんて言ってたけど、彼、人の心の機微ってもんが全然わかってないよね」
「アンは?あいつもいないけど」
「川畑くんを手伝いに行った」
山桜桃も大変だ……と二人はため息をついた。
「川畑くん、なにか私にも手伝えることある?」
職員室前で、山桜桃杏は川畑に声をかけた。歩きながら書類の束を確認していた川畑は、顔をあげてわずかに微笑んだ。
「ありがとう。それじゃあ、教室の植木にこれを書いてもらって。署名は本人じゃないといけないから」
山桜桃は書類を半分受け取って、首をかしげた。
「そっちはいいの?」
川畑は自分の手元の方の束に目を落した。
「こっちはいい。寮に提出する分とかだから」
山桜桃は、その書類が2セットあって、片方に川畑の名が記入してあるのを見てとった。
「川畑くん。それ……あなたのも?」
川畑は少しためらってから、そうだと認めた。
「なんで?植木くんが辞めるから?」
「違うよ。家庭の事情だ。親元に戻る。前々から言われてたんだが、先日の一件で早まった」
山桜桃は川畑を見上げた。
「親元ってことは単に寮から出てマンションから通うってことじゃないよね。お父様、たしか海外にお住まいだったもの」
川畑は黙っていた。
山桜桃は声が震えないように頑張って言葉を絞り出した。
「学校のアカウントで連絡できなくなるなら……連絡先を教えて」
「連絡先は……決まっていない」
川畑は山桜桃の方を見ようとしなかった。
山桜桃は揺れる目で川畑を見つめた。
「会おうと思えばまた会える……そうだよね?」
川畑は困ったような哀しいようななんとも情けない顔をした。
山桜桃はうつ向いた。
「……嘘ぐらいついてくれてもいいのに」
「ごめん。山桜桃にはそういうことで嘘はついちゃいけないと思った」
どちらも言葉が見つからない数拍の後、川畑がそのまま立ち去ろうとするのを感じて、山桜桃ははっと顔を上げた。
「私はここにいるから!」
川畑は振りかえった。
山桜桃は強い眼差しでしっかりと彼を見つめて笑った。
「会いに来て。待ってる」
川畑はつらそうに口元をわずかに歪めた。
「……待たなくていい。忘れてくれていいから」
「忘れないよ」
「高校2年の春のほんの数ヶ月だけ一緒だったクラスメイトなんて、これから山桜桃が大人になっていくうちに忘れてしまうよ。それでかまわない」
「じゃぁ、夏に会って!一緒に花火大会に行こう」
「杏……」
「まだレモンチーズタルトもパンプキンパイもブッシュ・ド・ノエルも作ってない」
川畑は口を引き結んだ。
「冷やし中華の金糸卵の作り方も教えてないし、栗おこわのお弁当も作ってあげてない。川畑くん、野菜の切り方下手だし、煮物のコツも知らないし、お味噌汁の加減もまだまだだし、それに……」
山桜桃は二歩川畑に近づいて、うつむいていた彼を見上げた。
「おせちは年に一度しか作らないよ」
川畑は目を瞑って、奥歯を噛み締めた。
山桜桃は川畑が口を開くまで、黙って彼を見上げていた。
「俺は……君の好意に応えられない」
川畑はのろのろと話し出した。
「他に好きな人がいるんだ」
「……付き合ってるの?」
「いや……片思い。付き合うのはたぶん無理。一度、告白をスルーされてるし、その後でも相手が嫌がる方法で強引にアプローチしちゃって、迷惑もかけまくってる」
「嫌われたの?」
「優しい人だから友人として気を使ってくれている。……だから、あきらめきれない」
「そう……」
その気持ちは痛いほどわかると、山桜桃は思った。
「この学校の人じゃないよね」
「ああ、俺が元々いたところの近くに住んでる人」
「そっか……」
川畑は山桜桃の目を見た。
「こんな俺が、食い物に釣られて君を利用するのは、フェアじゃないと思う」
「アンフェアでいい」
山桜桃は川畑の手元の書類に書かれた文字をぼんやりと目で追った。
「フェアなあなたとこのままサヨナラするより、アンフェアなあなたとこれからも会えるほうが幸せだから」
「杏、それは……」
「他の人に片思いしている川畑くんに利用されてもいい。聞き分けのいい女になるより、都合のいい女になったほうがましだもの」
「それは良くない発想だと思う」
川畑は真面目に心配した。
「俺は君がすごくまっとうで家庭的なところが好きだし、尊敬しているから、俺のせいでそんな風に歪んでほしくない」
彼は山桜桃杏には普通に幸せになってもらいたいと真剣に願った。
「例えばこの街が壊滅したり、世界が滅んだりするのなら、俺は君を連れていくけれど、君が平穏にここでこのまま暮らしていけるなら、俺に乱されずにまっとうな人生を送ってほしい」
「川畑くん、ずるいよ」
本当にアンフェアで勝手な言い種だった。
「……ずるい」
それでも山桜桃は、そう言われたら従うより他になかった。




