確保
「よかった。川畑さんですか」
帽子の男は、大袈裟なジェスチャーでほっと胸を撫で下ろした。
「誰かに見つかっちゃったかと思いましたよ」
「他の生徒は避難済みだ。のりこの容態は?」
川畑は音楽準備室に置かれた楽器ケースの間を大股に歩いた。
「ずっと寝てます」
部屋の奥のティンパニやコントラバスの影に、ノリコは横たえられていた。
「(おおお、"植木"じゃなくて"のりこ"だ)」
川畑は顔は真剣なまま、彼女の側に駆け寄った。
「(ああ、かわいい。やっぱり女の子ののりこさん、かわいい)」
内心の語彙はかなり残念なことに成り果ててはいたものの、川畑は気遣わしげな様子で彼女の傍らにひざまづいた。
「スリーブモードのような状態か?」
「よくわかりません。たしか時空間変異の調整だとか変動耐性の強化だとかのメンテナンスをやったばっかりだから、今起こっている変異で不具合が出ているわけではないはずなんですが」
「変異が起こっているのか?」
「ええ、近いけれど属性が相容れないはずだった世界が統合しかけてて……」
帽子の男はハッとして、疑いの眼差しで川畑を見た。
「川畑さん、何かやりましたか?」
「いや、何も」
川畑はノリコから目を離さないまま、素っ気なく答えた。
「お前にさんざん注意されてるからな。ここではずーっと大人しくしてるし、世界が変異するような干渉なんて全然してない。そもそも世界って個人の干渉で統合できるのか?」
「そうか。普通は統合どころか感知も無理ですよねー。失礼しました。キャプテンがそういうの得意で無分別にあっちこっちくっつけたり、分離したりするんで、感覚が麻痺してました」
「あのおっさん、そんな事するのか」
「そうなんですよ。先のないどん詰まりの世界に未来を延長したり、世界の一部だけ隔離したり、非常識なことを気分次第でやりたい放題です。まったく迷惑な存在ですよね」
帽子の男は腕を組んで、ウンウンうなずいた。
「もっとも、このくらいの小さな泡沫世界の場合、人為的にではなくても、何かのはずみで自然にくっついたり弾けたりするので、今回はそういうのだと思います。時空間変異というと大袈裟に聞こえますが、中の住人にとっては、気づかないうちに常識が書き換えられているだけなので、大騒ぎにはならないと思いますよ」
川畑ぐらい固有の軸がしっかり確立している人は全然影響を受けないから、むしろいつの間にか世界観が変わっていたり、周囲の人の知識が自分と食い違っているのに気づいたら、ボロを出さないよう、適当に話を合わせるようにと、帽子の男は口酸っぱく注意した。
川畑はノリコに影響の無さそうな話だと思って、半分聞き流しながら適当に話を合わせて生返事をした。
「(今ののりこの体には自核も腕輪も浮かんでいない。選挙戦参加対象としての術式の個体認識にエラーが出ているのか。これなら俺の方で魔力の放出を抑えれば、触れても判定に引っ掛からない可能性が高いな。こんな危険なところに寝かせておくわけにはいかないし、呪い返しの影響が出ていないかも心配だ)」
川畑は、とにかく触りたい!抱き締めたい!の下心を、正当化すべくあれこれ考えた。
「よし!まずは彼女を安全なところに」
一抹のやましさと引け目を、理論武装で押しきった川畑は、眠るノリコを抱き上げた。声をかけて起こしてからだと、拒否されるかもしれないので、そのままいったというぐらいのへたれっぷりではあったが、まぁ、表面上の行動は堂々としたものだったので、帽子の男も特に異論は挟まなかった。
「で、どこに?」
ノリコを確保した満足感と充実感に幸せを噛み締めていた川畑は、帽子の男にそう問われて、はたと困った。女子のノリコはこの学校の生徒ではないので、体育館には行けないし、寮に帰すわけにもいかない。ノリコのこちらの世界のマンションに戻すのは無難だが、中断しているとはいえ、陣取り合戦の総大将が勝手に帰宅してしまってもまずいだろう。
「ひとまずは……」
答えようとしかけたとき、ノリコが身じろぎした。川畑は慌てて彼女の顔を覗き込んだ。
「のりこ?」
トロンとした眼差しで川畑を見たノリコは、理性があるとは思えない笑顔で「わぁ」と一声漏らし、突然川畑を抱き締めた。
「捕まえたぁ」
「くぁっ」
川畑は思わず仰け反った。
「食べていい?」
「は?」
「いただきます」
川畑に抱きついたノリコは、彼の耳たぶを一度舐めてから、軽く噛みついた。
川畑は喉奥で呻いて、諸々の衝撃をやり過ごした。
「のりこ……待て、正気に…」
「ノリコさん、ゾンビですか?」
帽子の男が、呑気に首を傾げた。
「ちょっ…そんなこと言ってる場合じゃ……」
「全部欲しい」
首筋をつーっと舐められて、川畑は激しく動揺した。状況を冷静に考えようと、感覚に集中したら、ノリコの吐息やら、舌の熱さやら……押し付けられている胸の感触やらをがっつり詳細に感じてしまった。
「(あ…ノーブラ)」
冷静どころではなくなったものの、川畑は、目を丸くしている帽子の男の前で醜態を曝すのは絶対に嫌だったので、必死に体の制御に努めた。
「寒いよ……助けて」
川畑にしがみついたまま、ノリコは身を震わせた。
「のりこ?大丈夫か?しっかりしろ」
「なんだか手が先の方から黒くなってきてますよ。ノリコさん、本格的にゾンビ化してません?」
「縁起でもないこと言うな」
川畑はノリコを横抱きから縦抱きに変更して、首に回された手を無理やり確認した。確かに指先からじわじわと黒く変色している。川畑は、Bホールで魔方陣に捧げられていたコピーの手も黒かったのを思い出した。これはあの件やコピーが造られる前に、植木に対してかけられた術式の効果なのだろう。
「ノリコが意識を取り戻したことで、植木にかかっていた術の効果が再発動しているのかもしれない。専門家に対処を仰ごう」
「了解です」
川畑は苦しむノリコに、「必ず助けるから」と声をかけて、ヴァレリアのところに転移した。




