もはや知ったこっちゃない諸事情
「どうしよう。こんな……」
音楽室の前で、美しい黒髪の少女は廊下の窓の外の怪獣を見ながら呟いた。
「こんなはずじゃなかった?」
少女の一人言を拾うようにかけられた声に、彼女は驚いて振り向いた。
いつの間にか彼女の後ろに立っていたのは、竜胆紫苑だった。薄い色の髪を長く伸ばし、チャラついた格好をした色男は、穏やかな笑みを浮かべていた。
「葵ちゃん。それとも想定以上の大成功かな?」
「そんな……違うわ。私は……」
中庭の怪獣は恐ろしい声で一声鳴くと、大きく身震いをした。怪獣の巨体が中等部校舎に当たり、校舎が揺れた。廊下の窓が割れて落下する。
「きゃぁぁ」
耳を押さえて悲鳴を上げた少女を、紫苑は抱き寄せて庇った。
「じゃぁ、君はどういうつもりだったんだい。スオウやみんなをそそのかしてこんな騒ぎを起こさせて」
紫苑は愛をささやくような甘い声で少女に問いかけた。
「学校を壊したかったの?」
「違う……私はそんなこと望んでない」
彼女は人形のように整った顔を青ざめさせて、首を降った。紫苑は彼の腕から逃れようとする彼女の手首を掴んだ。
「ふぅん。でも、あの呪術召喚の術式をシュウに教えたの、君でしょ?」
「私は教えていないわ。あれは冬青先輩がご自分で調べて……」
「彼がいつもこっそり読んでる裏掲示板に、情報上げたでしょ。匿名だからしらを切れると思ってる?」
「……私はそんなの知らないわ」
うっすらと涙を浮かべて、弱々しくもがく美しい少女はいたいけだった。
「なるほど。そっちはおうちの人がやってくれたんだ。桐生院のおじ様の部下の誰かかな?」
少女はハッとして、紫苑を見つめた。
「知ってるよ、葵ちゃん。学校で名乗っているのは母方の姓だよね。でも、僕は桐生院のおじ様の家で君に会ったことがあるんだ」
「うそ……」
「何年も前に一度だけだし、僕もまだ真面目にしてた頃だから、君が覚えてないのは当然だと思うよ」
紫苑はとろけるように優しく微笑んだ。
「でも、僕は覚えてるし、忘れたことはない。だから、いつも君が何をしているのかそっと見ていたんだ」
「そんな」
「カレンを操って醜聞を起こさせたり、Sプロのみんなを煽動して生徒会と対立させたり、大活躍だよね」
「誤解よ」
彼女は紫苑の手を振り払った。
「そう?」
窓の外では教師が拡声器で避難を呼び掛けている。
紫苑は、怯える少女に手を差し出して、目を細めた。
「君、学校が嫌い?」
校庭のスピーカーからサイレンが長く鳴った。
桐生院葵は目を瞑り、両手で耳を覆った。
サイレンに反応したのか、怪獣は中等部校舎を破壊して、校庭側に向かおうとした。西渡り廊下付近が崩れ落ち、中等部校舎3階の西の端にある音楽室付近も激しく揺れた。
「違う!違うの。壊したいだなんて思ってない!学校がなくなっちゃったら意味がないもの」
紫苑の腕の中で、葵は震えた。華奢な彼女の体を抱き締めて、紫苑は耳元でささやいた。
「君はどうしたかったの?」
「私……」
「君が望んだことを教えて」
「私は……ただ普通に学校に通いたかったの。だからお祖父様と約束をして」
「どんな?」
「ちゃんと言うことを聞いたら、お医者様を学校に常駐させて、設備も整えて、私の病気が悪化してもできるだけ学校にいられるようにしてくれるって約束をしていただいたの」
葵は持病のせいで通院が多く、授業や学校行事を休むことが多かった。
「そのために何をしろって?」
「ただ寄付をしただけでは、今の学校の上の人は、一人の生徒のためにそんな事してくれないから、お祖父様やお父様の要望をきいてくれる人が校長や理事になれるように、協力しろって……」
目を潤ませて、彼の顔を見上げる葵に、紫苑は互いの吐息が混ざり合うような距離で、残酷な事実を告げた。
「桐生院のおじ様の目的は、この学園が持つ魔法に関する知的資産だよ。優秀な生徒も含めたね」
彼の指先が彼女の細い首から頤をなどった。彼女は大きな目を見開き、息を一つ微かに漏らした。
「君や僕も含めて、この学校には良家の子女や魔法の才のある生徒がたくさんいる。社会に出る前の僕たちに干渉し、実習や研究の成果を吸い上げることができれば、おじ様の事業の発展に繋がるんだ」
「お父様は、今の放任で閉鎖的な体質が改まって、目の行き届いたオープンな体制になれば、学校は良くなるって。企業や研究機関との提携や共同研究が可能になったら、優秀な生徒がもっと才能を伸ばして社会に貢献できるからと……」
「その提携先が桐生院ということだろう?」
「それは……最初はテストケースとして協力してくださると思うわ」
紫苑は目を逸らせた葵をじっと見つめた。
「確かに今のうちの先生方は放任主義だ。だがそれは、生徒の自主性を重んじてくれているからだ。僕らが自分達でなんとかできる分には、何も口を出さないし、それでいて外部からは守ってくれている」
「その、学校を聖域とする考え方が、子供の価値観を歪めてしまっているって、お祖父様は嘆いておられたわ」
「だから、外部を介入させざるを得ないほどのスキャンダルを起こしたのか」
葵は足元に視線を落とした。
「私は、何もしていないわ」
「カレンやスオウが勝手にやった?よく言うよ。君がやらせたんじゃないか。さぞかし楽しかったろうね。単純な彼らが君の口車にまんまとのって、踊る姿を眺めるのは」
「違……」
「君のその姿や仕草に他人が騙されるのは面白いよね。……それで何人破滅させた?」
紫苑の冷たい声に、葵は目を見開いた。
「腕を上げたよね。みんな君に誘導されて踊らされたなんて思っていないだろう。昔、12かそこらの君に騙されて破滅した僕だって、君がうっかりこぼした本音を聞いていなければ、今だって君のことを囚われのお姫様か何かだと思って、安っぽい正義感で救おうとしていただろうからね」
紫苑は苦い口調でそう溢すと、自嘲気味に笑った。
「覚えてる?君を連れ出して、一緒に逃げてさ……捕まって引き立てられて行く僕に、君は言ったんだ。"楽しかった"って」
「まさか、リュウお兄ちゃん?」
「そうだよ。竜胆の"竜"。我ながら偽名の名乗り方が中2病だったな。退屈していたお嬢様の暇潰しにはいい余興だっただろう」
「そんな……違うの。私、そんなつもりじゃ」
「おかげさまで天下の桐生院のお嬢様の誘拐騒ぎを起こしたバカなお子様は、後継者争いからドロップアウトして、日々を気楽に過ごしているけどね」
葵は口元を手で押さえて、潤んだ瞳から大粒の涙を溢した。
「私……貴方の話してくれた学校がどんなところか知りたくて……貴方にもう一度会いたくて……この学校に来たの」
「そういうの。もういいよ」
紫苑は顔を歪めた。
「君の擬態にはもう騙されない。それに……」
紫苑は怪獣がいるはずの方向を見た。
「事態は、僕や君のシナリオをとっくに逸脱している」
不意に廊下に作られたバリケードの一角が音を立てて崩れた。
「あ、すまん」
崩れた机を乗り越えて来たのは、半裸の大男だった。ついさっきまで怪物と闘っていた当事者である。
悲鳴を上げた少女と彼女を抱き止めた色男を見て、彼は申し訳無さそうに頭をかいた。
「お取り込み中のところ、申し訳ないが、早く避難した方がいいぞ。こっち側の校舎は危険だ。あっちの階段はもうメチャメチャだったから、そこの非常階段から降りるといい。みんなは体育館に避難してる」
彼は共用棟に続く廊下の角に向かって声を張った。
「おい、橘!!貴様もそんなところに隠れていないで、さっさと避難しろ!」
「ひゃぁっ」
廊下の角からすっとんきょうな声が上がって、癖っ毛のショートヘアがちらりと覗いた。
「取材中に邪魔せんといてえな」
小型レコーダーっぽい機器をしまいながら、デマ報道で悪名高い報道部の女生徒が、ぶつくさいいながら姿を表した。
「君!いつから……」
抱き合ったままショックを受けた様子の美男、美女に同情するような眼差しを向けた大男は、やって来た小柄なゴシップ記者の頭を鷲掴んだ。
「はい。回れ右。非常階段から降りろ」
「いやぁん。怖いわー。連れてってーな」
「摘まみ出されて、蹴り落とされたくなかったら、さっさと行け」
「はいはい。ほんまにもー強引なやっちゃなー」
文句をいいながらも、女生徒はズレた眼鏡を直しながら非常階段に足を向けた。
「ほら、あんた達も」
仏頂面でぶっきらぼうに言われて、完全にペースを飲まれた男女二人の方も、慌てて非常階段に向かった。
邪魔者を追い出して、川畑は面倒くさそうに一つため息をついた。
「ああっ!待って」
非常階段の扉から出かけたところで、黒髪の美少女が振り返った。
「まだ中に人が残っているの」
「わかっている。俺が助ける」
川畑は力強く言い切った。
少女は怯えたようにたじろぐと、チャラい格好の優男に手を引かれて、非常階段を降りていった。
「(さて)」
川畑は音楽準備室の扉に手をかけた。
「(カギは……この際、いっか)」
彼は扉を外した。
「ごめん。遅くなった」
川畑はノリコがいるはずの室内に入った。
色々思わせ振りなことを言っていますが、彼氏彼女の事情は、もはや本筋ではなくなってしまったので、ここまで。
本来の、女の子向けコミック的世界観は、怪獣が出た辺りで完全に崩壊しています。




