月と太陽の彼方
小鳥と茸の意匠のランプが淡く照らす寝台で、ノリコは眠っていた。
胸元に手を重ね、周囲を花で飾られた姿は、童話の姫のようで、着せられている緑色の清楚なドレスと相まって、神秘的な妖精のお姫様という風情だった。
「くそっ、葬式じゃあるまいし、寝てる女の子にひどい扱いしやがる。体冷やしたら風邪引くだろう。掛け布団持ってこい!」
「つくづくファンタジーな情緒と感性に乏しい人ですねぇ。……上掛けがないか妖精達に頼んできます」
帽子の男が出ていった室内で、川畑は眠る彼女の顔を見ながら、深く後悔し、激しく怒っていた。
川畑に精霊力の使い方を教えたあと、力を消耗した妖精女王は、一休みするために奥に下がったらしい。そこで女王の部屋に忍び込んでいた賊と鉢合わせたという。侵入者は、普段の女王なら歯牙にも掛けない小者だったが、いかんせん、力を失ってぐったりとしていた女王ではろくに抵抗できず、気絶させられたらしい。
「……ある意味、俺のせいか」
隣室にいたノリコは騒ぎを聞きつけ、気を失った女王を助けるために、女王に何かしようとしていた賊と女王の間に入ったのだが、その時に、賊が持っていた呪いの花の露がノリコにもかかったのだという。
"七色の花"というその花は、女王が部屋で大切に育てていた美しい花だが、その露には強い呪いの力があり、人を狂わせるとのことだった。
「なんで君がこんな目に」
賊の侵入に、あわてふためいた妖精達は、とりあえずノリコを眠り花粉とやらで眠らせたが、賊は取り逃がし、そのまま花も盗まれてしまったという。
「剣だの馬だのあれこれくだらない条件なんて無視して、さっさと君を連れて帰れば良かった」
可能なら時間を逆行して助けに行くが、残念ながらまだそれほど自在に転移できる訳ではない。
川畑は、奥歯を噛み締めた。
「綿雲の掛布、持ってきてもらいました。ふわふわですよ。それと、ノリコさんやタニア様の掛けられた呪いは、盗まれた花があればすぐに解呪できるそうです」
「……賊はどっちに逃げた」
「わかりませんが、おそらく行き先は妖精王の城です。侵入者は、妖精王と女王のところによく出入りしている、道化のようないたずら妖精だったそうです」
川畑は、寝台の上の花を払いのけ、ノリコに上掛けをそっと掛けると、彼女の顔の横に残っていた花を、ぐしゃりと握り潰した。
「いたずら妖精だか妖精王だかなんだか知らないが、このオトシマエは付けてもらうぞ」
川畑は長ドスをベルトに挟むと、帽子の男をその場に残して、宮殿前の馬場に転移した。
「すぐに立つ。馬の用意はできているか」
川畑が現れると、黒馬は嬉々としてそばにやって来た。頼んでおいた馬具はついていない。慌てて馬のあとを追ってきた馬屋番の妖精達いわく、頑としていうことを聞かず、馬具を付けられなかったとのこと。
川畑は馬屋番達をじろりと睨み、彼らが持っていた馬具の中から、黙って馬用の短い鞭を手に取った。
黒馬と妖精達は殺気に震え上がった。
「時間が惜しい。賢いお前が馬具を嫌がるということは、馬具なしで俺を乗せる自信があるということだな」
川畑が馬の頬を撫でると、黒馬は従順に頭を下げ、膝を折った。
「妖精王の城に往く」
背に乗った川畑がそう言うと、黒馬は一声高く嘶いて、駆け出した。
広く開けた場所に出ると、黒馬は翼を軽く広げた。
「お前、もしかして飛ぶ気か?」
漆黒の翼から星の瞬きのような銀光がこぼれ落ちる。
「……精霊魔法か」
蹄が淡い光を放ち、バチバチと火花を散らした。
「よし、行け!」
黒い天馬はそのまま宙を駆けるように飛び立った。
たちまち夜空高く駆け上がる。
地上の木々が小さくなり、精霊界の全景が見えてきた。
「インテグラルツリー……もどき」
暗闇に浮かぶそれは両端に梢のある巨大な樹だった。引き伸ばされたS……インテグラル記号∫のような形をした樹の端は、匙のように広がった梢で、女王の宮殿やその周辺は、すべてその絡み合った巨大な枝に支えられていた。
「ということは、反対側の端に妖精王の城があるんだな」
黒馬は肯定するように、精霊界を支える巨大な樹の幹に沿うよう向きを変えた。
川畑はしっかりと馬の背に跨がった。世界樹の回転による遠心力で発生していたらしき重力はもう感じない。今、気を緩めたら容易に馬体から放り出される。
高速で飛翔する馬上で、馬が疲弊しないように、できるだけ姿勢を安定させる。
しばらくすると、意外に小さい月が近づいてくるのが見えた。樹を挟んで反対側には、月と同じくらいの大きさしかない太陽も見える。この世界の月と太陽は共に世界樹の周りを巡る、発光する衛星のようなものらしい。
「幹の中央部辺りで逆サイドに回り込め」
飛行の魔法を使っているなら、どういう定義をしているにせよ、上下が逆転する中間点で反対側に回り込むのが負担が少ないだろう。
かなりの時間翔び続け、さすがに疲労が溜まってきたのか、黒馬の脚が乱れるようになってきた。川畑は、時折、軽く鞭をいれながら、馬を励まし、体の接触面を通じて少しずつ精霊力を送った。
「苦しいだろうが、頑張ってくれ。俺はなんとしてでも大事な人に掛けられた呪いを解きたいんだ」
黒馬は、大量の汗で馬体を濡らしながら、必死に駆けた。
「偉いぞ。あと少しだ。帰ったらしっかり洗ってやるからな」
巨大な梢の先に、精霊界の小さな金色の太陽に照らされた城が見えてきていた。
妖精王の城は、黒曜石と黒大理でできたような巨大な城だった。
植物紋と曲線主体だった女王の宮殿とは対照的に、鋭いシルエットの尖塔が林立し、ゴシック建築のようにガーゴイルや幻獣の像が各所を飾っていた。
上空から城の様子を一瞥し、川畑は飾り窓のある一番大きな建屋の前の中庭に馬を降ろした。
「ありがとう。よく頑張ったな。ここで休んで待っていてくれ」
小さな噴水の前で馬にそう言い聞かせると、馬は名残惜しそうに小さく嘶いた。
「大丈夫。ちょっと花盗人の小悪党をとっちめて、妖精王を締め上げてくるだけだ。すぐ戻る」
馬は不安げに目を潤ませたが、城の入り口を睨んだ川畑の気配が再び剣呑なものに変わったのに怯んで、大人しく噴水池の水を飲み始めた。
川畑は一人、妖精王の城に入っていった。




