月光の草地
月光の草地に現れた黒い天馬は、茂みに隠れた二人には気づいていないようだった。
「六肢系哺乳類か……。関節どうなってるのかなぁ」
「どうやって捕まえます?力ずくで乗るんですか?」
「馬は臆病な生き物だから、怖がらせたら駄目だよ。騎乗するなら信頼関係を築いた方が良い。野性馬でなくて、もとは飼われていて優秀だったというなら、基礎は調教済みだろう。できるだけ穏当に馴れさせることができればいいんだが」
「驚かせると飛んで逃げそうですね」
「さすがにあの馬体にあの程度の大きさの羽では飛べないだろう。胸筋も羽周りの筋肉もそれほど発達していないし、重心も悪い。ダチョウと同じで保温か求愛用の飾りじゃないか」
さてどうしたものかと川畑は思案した。
「お前は女王の館に戻って、馬具か引き綱を持ってこさせてくれ。その間、こっちはこっちでなんとかやっておくから」
「はーい。では、行って参ります」
帽子の男がすぅっと闇に消えるのを見送って、川畑は黒馬に近づく方法を思い付いた。
まず、翻訳さんに馬の知覚にも干渉できるか確認する。できるようなので、ある程度近づくまで気づかれないように認識を阻害するように指示する。
とはいえ、急に現れて驚かせてはいけないので、そこは不自然な出現にはならないように頼む。警戒されないよう姿や声も、馬が逆らう気が起きにくい、受け入れやすいものに多少調整してもらうことにする。
「(さっきはちょっと失敗したらしいから、翻訳さんには慎重に指定しておこう)」
馬に害を与えるつもりはなく、信頼感や好意を引き出して、主人として認めさせて騎乗するのが目的だと念を押す。これだけはっきり釘を刺しておけば、翻訳さんは優秀なので、不本意な結果にはならないだろう。
馬を変に擬人化されたり、言葉をアテレコされると自分の方が落ち着かないので、馬は馬のまま言葉はつけないでもらうが、自分の言葉は翻訳してもらうことにする。飼われていたなら、馬場で調教された言葉で声を掛けられた方が、まったく知らない言語を使われるよりも馴染み易かろうと考えた。
慎重に馬に歩み寄る。
静かに、落ち着いた態度で、ゆっくり動くことを心がける。真正面や後ろからは接近しない。
昔、乗馬体験の際に教えられたことを思い出しながら、馬の脇に立った。
翻訳さんがうまくやってくれたのか、黒馬は川畑が近づいても大人しく立っていた。前脚よりやや前、首の脇辺りに立って、軽く声をかける。驚かせないように声は低く静かに。
「大丈夫。怖がらないでくれ。ほら、悪いことはしない」
馬から見えるように手をゆっくり上げて、これから触ることを認識させてから、首などを優しく撫でる。
「よし、良い子だ。お前は賢いな」
少しでも思い通りにしてくれたら、誉める。
「そうだわかるだろう。敵じゃない。言うことを聞いてくれ」
少し反抗するように馬体を押し付けてくるので、肩から翼の付け根辺りに手をあてて、全身に力を込めて、ぐっと押し返す。馬の群れのリーダー争いと一緒だ。ここでなめられてはいけない。
「俺が主人だ。いいな」
馬の首をしっかりホールドして、静かに強く言い聞かせる。
「俺の言葉はわかるだろう。お前に乗せてくれ」
黒馬は大人しく頭を下げた。
確かに賢く優秀な馬だ。こんな大人しい良い馬が逃げたなんて、世話係はなにをしたんだろうかと、川畑は内心で首を捻った。
川畑は、またしても翻訳さんがやらかしていたことには、一切気づいていなかった。
彼は誇り高い皇子だった。高貴な身に生まれ、優れた資質を持ち、輝くばかりの美貌に恵まれて、なに不自由なく育った。
妖精の女王に請われて精霊界を訪れたのも、彼にとっては軽い余興のようなものだった。美しい妖精女王が自分を誉めそやし、ちやほやするのは気分がよかった。
そこまでは良かったのだが、彼と女王が楽しく過ごしていたところに、突然現れた妖精王とやらが、彼に呪いを掛けて、馬の姿に変えてしまったのだ。
彼は驚き、怒り、嘆き、絶望した。
連れていかれた妖精王の城からは、命からがら脱出してきたが、この呪いは掛けた妖精王にしか解けないという。
用意された馬小屋は清潔だったが、彼のような高貴なものが休む場所ではなかった。
耐えきれず森に飛び出してはみたものの、行く宛も帰る宛もなく、馬としての生き方もわからなかった。
月を見ながら、これからのことを思い途方にくれていると、いつの間にか誰かが彼の傍らに立っていた。
その何者かはあまりにも自然に彼の傍らに身を寄せていた。その者の体は、内からあふれでる精霊力で、ほんのり輝いていて、暖かかった。
『恐れるな』
恐ろしく、しかし心を蕩けさせるように甘い、逆らいがたい声が、耳元で響いた。
『大人しくすれば悪いようにはしない。……それとも悪いことをしてもらいたいのかな』
その者は彼を試すようにゆっくりと手を見せつけた。そのまま、すくんでしまった彼の首筋や耳をじっくりと撫でる。まるで全身の感覚が撫でられている部分に集中してしまっているようで、動けなかった。
『賢明だ。そのまま良い子にして、我が命に従え』
心を痺れさせる甘い声の誘惑を振り払い、わずかに身動ぎする。このままこいつに屈してはいけない。
しかし彼のわずかばかりの抵抗は、恐ろしい力で押さえつけられた。
『私がお前の主だ。魂に刻み込め』
そいつは彼の首筋を抱き締めて、耳元でささやいた。
『隷属せよ。我に従えば……お前に乗ってやる』
その悪魔のような口元からは、熟れた果実の甘い香りがした。
誇り高い皇子は、屈伏した。
「いやぁ、本当にお前は大人しく命令に従う良い馬だなぁ」
川畑は上機嫌で馬の背を撫でた。
馬具のない裸馬に乗るのは初めてだったが、この黒馬は人を乗せるのを嫌がらず、川畑が脚で送る指示をよく感じ取って、動いてくれた。よほど良い調教師に訓練された筋の良い馬なのだろう。サラブレッドより大柄な馬体はがっしりしていて乗りやすく、美しかった。
「よーし、だいたい大丈夫だ。偉いぞ。厩舎に戻ったらブラッシングしてやるからな」
川畑が従順な黒馬を労っていると、森から、帽子の男があわてて飛んできた。
「大変です!侵入者が!!」
「なに!?」
「女王が襲われて、ノリコさんも」
「すぐ案内しろ!」
川畑は帽子の男と一緒に急いで女王の宮殿に戻った。
誤訳による大惨事
川畑の魔王モードは、翻訳さんが地味な主人を美化したくてしょうがなかったのも一因ではあるが、相手の言語=俺様系色気虫王子の言語で翻訳しちゃったのがおおむねの敗因。
つまり皇子は割と自業自得。




