お誘いしてもよろしいですか?
そろそろ就寝という時間に、川畑は植木にためらいがちに声をかけた。
「突然、変なこと聞くけど……競馬って興味あるか?」
ベッドに入って体を女の子に戻していた植木は、びくりとしたが、できるだけ落ち着いた声で慎重に答えた。
「本当に突然の話題だね。あんまり興味を持ったことはない……というよりも、接点が全然なくて考えたことないかな。どうして競馬?」
「いやその、たとえばの話なんだけど」
共有スペースの明かりを消して、そのままパーティションのこちら側にやって来た川畑は、いたって歯切れ悪く切り出した。
「女の子って競馬観戦に誘われて楽しいかな?」
「メジャーで無難なデート先ではないと思う。山桜桃さん誘うなら向いてないよ」
「違う!そんなつもりは全然ない」
川畑はあわてて植木の隣に膝をついた。
「だから、えーと、実際にという話じゃなくて、仮に、と考えてほしいんだけど……君が女の子だったら、競馬観戦に行きたいと思う?」
回りくどく前置きした割にはド直球な質問だった。
ノリコは、状況を一度頭の中で整理した。
川畑は明日、あの手作りケーキを土産に、お世話になっている誰かに会いに行く。その行き先がおそらく"競馬場"だ。そしてそれは、学校とその周辺少ししかないこの世界ではないに違いない。
女の子のノリコとして、そこに行きたいか?と質問されているのだ。
ノリコは、心配そうにこちらを覗き込む川畑を見上げて答えた。
「女の子でもそうじゃなくても」
「え?」
ノリコは、掛け布団を口元まで引き上げて、恥ずかしそうに小さな声で続けた。
「川畑くんとだったら、海でも山でも、お城でも宇宙でも、誘われれば二つ返事で行くよ」
「お、おう。そうか……でも、無理はしなくていいぞ」
「無理はしないけど……」
植木はそっと布団から手を伸ばして川畑の腕に触れた。川畑は恐る恐るその手をとって握った。植木は握られた手を引き寄せた。
「でも、無理もしたいな」
二人は黙って見つめあった。
ノリコは「あなたが好きだから」と続けかけた言葉を飲み込んだ。
ノリコは日和った。
「だって……色々お世話になってるし」
川畑の顔に間違った方向性の理解が浮かびかけたのを見て、ノリコは焦った。
「それ以上に、その……友達、そう!川畑くんは大事な友達だから!」
言い切った直後に、それが致命的な間違いであったことに、ノリコは気がついた。
「あ、なるほど」
川畑は、安心したようながっかりしたような微妙な顔をした。ノリコは日和った自分をぶん殴りたくなった。
「それ、義理とか恩返しとか、そういう感覚が判断基準に入ってるだろう」
「そんなことないよ。一緒に行こうって誘ってもらえたら、それだけで嬉しい」
「あっ、でもこの話、植木を連れていくって話じゃないからな」
「わかってる」
行くのが異世界だとすればこの世界に特化した偽体の"植木実"は一緒にはいけない。彼が誘うとしたら本体の方だろう。
だが、お互いそんな裏事情を話すわけにいかない立場なので、話がややこしいのだ。
川畑が誘うのは本体で、偽体の自分はどのみちお留守番になる。夢で記憶は共有するとわかっていても、この直接触れていられる機会を逃しがたくて、ノリコは川畑の手に頬を押し当てた。
「明日は朝から出掛けるの?」
「ああ。そのつもりだ」
「もう少しこうしていてもいい?」
「いいよ」
「大きな手だね」
ノリコは川畑の手に頬擦りした。なんだか自分がネコになった気がした。
「にゃーぉ?」
一声鳴いてみると、頬から喉元を撫でられた。
「あ…やん……」
ノリコは抗議の気持ちで、目の前の親指に軽く噛みついた。
「ん」
振り払われもせず、そのまま顎の下を撫でられた上に、太い親指で唇を割り開かれて、顔が上を向き喉元が無防備にさらされた。
「あ…ぅ……んん」
口に入ってくる指を舌で押し出そうとしたが、単に舐めるだけの結果になってしまう。
視線をあげると、薄暗い部屋の中で川畑からうっすら魔力光が立ち上っているのが見えた。
「んんん!」
涙目で助けを乞う視線を送るが、許して貰える様子はない。彼の手から溢れている魔力にあてられて頭がぼうっとしてくる。何が困ると言って、彼から魔力を注がれると気持ちいいのだ。
ノリコはつい、力をねだるように口に入れられた親指を吸ってしまった。
川畑が息を飲む気配があった。
吐息がかかるほどの距離に顔を寄せられて、ノリコはぼんやりと彼を見返した。
「こういうことは、しちゃダメ」
ノリコはゆっくり口を開けて、名残惜しそうに舌先で指を舐めた。
「ダメ?」
「ダメ」
「もっと……」
「……ダメ。止まらなくなるから」
川畑は苦しそうな固い声でそれだけ言った。
「怒った?噛んでごめんね」
ノリコは両手で握っていた彼の手を離した。川畑はノリコのおでこから髪をすくようにして、頭を撫でた。
「寮では悪いネコは飼えないから」
「噛まないいいネコならいいの?」
ノリコはもう一度「にゃーん」と鳴いた。
「飼いたくなるから、止めて。ホントに」
川畑はノリコの傍らに突っ伏した。
ノリコは固い髪質の彼の黒髪を撫でながら「ごめんね」とささやいた。
「おやすみなさい」
「……おやすみ」
川畑はノリコに髪を撫でられながら、ありったけの精神力を動員して、ようやくそれだけ答えた。
「(なんだかすごい夢だった。私、あんなことしたのか)」
ぼんやりまどろみながら、ノリコは統合された偽体の記憶を反芻した。
「おはよう」
「ひゃっ!?」
寝る前と同じようにベッドの傍らに川畑がいて、こちらを覗き込んでいた。
「えっ、川畑くん?」
「迎えに来た」
「早いよ。いつからそこにいたの?」
「着時間の調整に失敗して……君が起きるまで待ってた」
ずっと寝顔を見られていたかと思うととても恥ずかしかったが、同室でスリープモードに入る偽体がいる以上、彼にとってはノリコの寝顔なんて見慣れたものだろうと気がついて、文句を言うのはやめにした。
「支度するまで待ってて。帰りは何時になりそう?」
「今から出掛けて、この時間に戻って来れるから、君の日曜日の予定は変更しなくて良いよ」
「今からって……せめて着替えさせて」
「どうせホテルのドレスアップルームに直行だからそのままでかまわない」
「ドレスアップ?」
「エステ、メイク、ネイル、ヘアセット、ドレスの着付けまでフルセットで予約済み」
「なんで!?」
「ドレスコードがあるんだよ」
「"競馬場"じゃないの?」
ノリコは競馬場を想像してみた。なんとなく馬券を握りしめた怖いおじさんがいっぱいなイメージだ。ドレスアップしていくところではない。
「実は競馬とはいったけど、正確には馬のレースではないし、今回の会場はロイヤルアスコットみたいなガチの上流階級の社交場なんだ。帽子着用の最上級礼装。イメージとしてはあれかな?マイフェアレディのオードリー・ヘップバーン」
現代日本での競馬場という言葉の印象とは程遠いイメージの提示に、ノリコはめまいがした。
「えーと、それ男性側は?」
「もちろん、トップハットとモーニングでタイはアスコットタイ……的な礼装。軍人さんは軍服OKだっていうから、学生は学生服でいいかって聞いたら却下された」
"競馬場"があるのはクラシックな上流社会のある異世界のようだ。そして、そこにいくと、もれなくハリウッド映画のようなドレスを着用した上で、礼装姿の川畑にエスコートして貰えるらしい。
「どうする?止めておく?」
「行きます」
「作法とか面倒かもしれないけど」
「それは大丈夫」
時空監査官の基礎心理テストでも、未知の社会集団への適応能力は結構いい点数だったのだ。風変わりなものを受け入れる能力もかなり高かったから、きっと問題ないはずだ。
「ええっと……そういえば言っていなかったけれど」
川畑は、声をひそめた。
「実は連れていくとしたら身分証はまた"ハーゲン夫人"なんだ」
「それでもし慣習的に夫人同伴である場に連れていかなかったら、ハーゲン氏は妻を公式な社交には連れていけない関係の相手だと判断していると公表することになるけど、それでハーゲン氏の見解はあってる?」
川畑は顔面蒼白になって固まった。
ノリコはハーゲン夫人として、"競馬場"に出かけることになった。




