夕暮れの図書室で
今日の図書室は、いつもより少し人が多かった。Sプロのメンバーが無駄に噂を広めたのか、図書室に用がなさそうな生徒もいた。
遠慮がちですらない好奇の視線を鬱陶しく感じながら、杏はいつもの席に座った。
特に大袈裟なことはしないで、静かに終わらせようと、杏は川畑と打ち合わせ済みだった。先に来た杏がいつもの席に座り、後から来た川畑が、先日の騒ぎを謝って終わり。杏は一度うなずくだけですむ予定だ。
そう。ひとつうなずいて彼との恋人ゴッコはおしまいだ。
「(しょうがないか)」
杏は穏やかな気持ちで、専門書のページをめくった。
一緒に過ごせる最後の1日は、転校生の騒動でそれどころではなくなった。川畑は朝から転校生に付きっきりで、雑用をしていたからだ。
杏は机やロッカーを拭いておくなどの、ちょっとしたお手伝いしかできなかった。川畑とは空いたダンボールを捨てに行く時に少し話せたけれど、その程度。社交的で華やかな雰囲気のかわいい転校生を囲む人の輪は、杏には敷居が高すぎて近づけなかった。
「(この分なら、実習の班も私は抜きで、転校生が入って組むんだろうな)」
そう思うと、胸の奥が少しだけ痛んだ。
図書室の入り口の方から、ざわめきが聞こえた。
顔を上げると、川畑が転校生と一緒に入ってくるところだった。自分と彼の最後の大事な時間までとられた気がして、杏は恨めしく思った。川畑が当たり前みたいに転校生の荷物を持っているにも、もやっとした。
「(男の子なら、自分で持てばいいのに)」
ただ、きっと転校生は自分で荷物を持ってきていないことにも気づいていないんだろうな、とも想像がついた。転校生がけして彼をあごで使うようなタイプではないことは、少し様子を見ただけの杏でもわかった。
「(そっか。川畑さんは"彼女だから"じゃなくて、普通に親切にしててもあれぐらいやってくれちゃう人だったんだ)」
気付きたくなかったなと思いながら、杏は本に目を落とした。
気のせいかこのページは、小さな文字がにじんで読みづらかった。
「山桜桃さん」
抑えた声で静かに声をかけられて、杏は顔を上げた。"杏"と名前で呼んでもらえないことが、こんなにさみしいとは思ってもみなかった。
「先日は迷惑をかけてすまなかった」
机の向こう側に直立していた川畑が、頭を下げた。
「以後、図書室でも教室でも君の邪魔はしない」
こちらを見た彼と杏の、目と目があった。一呼吸見つめあった二人の外野から「それだけじゃないだろ!」とヤジがとんだ。
「今後の学校生活で、こちらからは君に必要最低限にしか声をかけないし、不容易に近づかないことを誓う」
彼は抑揚のない低い声で、まるで紙に書かれた他人の言葉を読み上げるようにそう言った。
杏は黙ってひとつうなずいた。
川畑が彼女に背を向けて立ち去ろうとした時、あの双子がその前をふさいだ。
「それだけ?」
「なにカッコつけてんの。謝る気あんの?」
ニヤニヤしながら、双子は楽しそうに川畑を小突いた。
「彼女にもさ、土下座してあげなよ」
「うちのリーダーの前で僕らには見せてくれたでしょ」
杏は川畑がそんなことをさせられていたとは聞いていなかったので、思わず息をのんだ。
「ほら、さっさとやれよ」
川畑はもう一度、今度はかなり強く肩を小突かれた。もちろん小突かれたぐらいでどうかなる男ではなかったので、彼は小揺るぎもしなかった。
相手はそれに腹を立て、声を荒げた。
「黙ってないで返事をしろ!」
川畑が口を開こうとした時、大きくはないがよく通る声が響いた。
「君、うるさい」
図書室にいた生徒達の視線が、声の主に集まった。
亜麻色の髪の美少年は、華奢な人差し指を桜色の唇にあてて、もう片方の手で「図書室ではお静かに」と書かれたポスターを指した。
「なっ!」
双子は思わぬところからの介入にあわて、声の主の見知らぬ美少年に一瞬見とれたが、すぐににらみ返した。
「お前は関係ないだろ!口出すなよ」
「そうだぞ。引っ込んでろ」
女の子みたいな顔の美少年は、クールに目を細めた。
「カッコ悪い」
軽蔑のこもった一言だった。
「なんだって!?」
「カッコ悪いって言ったんです。頭だけじゃなくて、耳も悪いの?ああ、だから声が大きいのか。大変だね。でも、うるさい」
「は?」
綺麗な顔からとんでもない言葉がノンブレスで飛び出して、図書室内が凍りついた。
「関係ない立場から今見た範囲で言わせてもらえば、君らゲス。カッコ悪い。なに?土下座って。今時イジメ?いい年して、いい学校来てなにやってんの。やめなよ、みっともない。そんなことしてると女の子にモテないよ。モテたいんでしょ?髪染めて、ピアスして、学校指定じゃないドレスシャツ着てさ。それだけ外側飾って、やってることゲス小物ってカッコ悪いにも程があるでしょ。鏡見なくても隣にそっくりなのがいるんだから、客観視できるよね。気づけ」
双子は口を挟む隙すらなく高速で繰り出される攻撃に、滅多うちにされて、たじろいだ。
「ところで彼は何をやってあんなに責められているの?」
「さ、さぁ?あっちの女の子が茅間くん達と付き合おうとしたら、邪魔したって聞いたけど……」
手近にいた生徒からの答えを聞いたノリコは、山桜桃の方を見た。
「そうなの?」
「私、この人達と付き合おうとなんてしてません。この人達が無理やり私を連れていこうとしていたところを、彼が助けてくれたんです!」
杏はこの転校生に誤解されるのは嫌で、必死に主張した。
「それじゃあ、別に謝る必要ないよね?」
「なんかあいつ準備室に彼女閉じ込めて、無理やりいやらしいことしたんだってさ」
別の生徒からの証言にノリコは、ジロリと川畑を睨んだ。
「いやらしいことしたの?」
「してない!」
川畑は食い気味に否定した。
「俺は彼女には、指一本たりとも手を出していない!」
「本当に?」
「本当……あ…」
川畑の視線が泳いだ。
ノリコの声のトーンが一段下がった。
「何したの」
「い、一度だけ……頭を撫でた」
「ちょ……川畑さん、そんなのこんなとこで言わないで」
「す、すまん」
真っ赤になった三つ編みの女の子と、動揺する大男を見て、その場にいたほぼ全員が「勝手にしろ!」と思った。
「えー、でもあの時、上半身裸で準備室から出てきたよね。あれどういうこと?」
今度は女生徒からの突っ込みに、もう一段目線が冷ややかになったノリコをなだめようとして、川畑は口ごもりながら釈明した。
「あの時は、ボタンが引っ張られて取れたから、彼女に付けてもらっていて……そのう……花瓶の水でシャツがだいぶ濡れていたし」
「なんで花瓶の水?」
「そこにあった花瓶で頭を殴られたとき、花瓶が割れて水がかかったんだ」
「ふうん?」
美少年は推理する探偵のようなポーズで、首をかしげた。
「ボタンを引っ張ったり、花瓶が割れるほど君の頭を強く殴ったの誰?」
「そこの右側の人」
口をパクパクさせていた双子の片割れに、みんなの視線が集まった。
「それでなんで、暴行犯が被害者に土下座しろって言ってるの?逆じゃないの?」
「別にそれは追及しなくていいよ。彼も別段、論理的に話しているわけではないから、そこに整合性を求めても仕方がない」
「にしても、不条理でしょ。なんで、ナンパしてきたお邪魔虫が、付き合ってる二人の仲を裂いて大きな顔してるわけ?……え?付き合ってるんだよね?違った?」
川畑が棒を飲んだような顔をしたので、ノリコは三つ編みの彼女の方に確認した。
「……ち…がわ…ないです」
彼女はとても小さな声でかろうじて答えて、うつむいた。
「さっき、こっちの彼が、もう話さないとか、近づかないとか、馬鹿げたことを言ってた気がしたけど、それっていいの?」
「……よくは…ないけど、仕方がないので」
「ひょっとして誰かに脅されてる?大丈夫?僕で良ければ力になるよ」
杏はつらそうに顔を上げて、それでも弱々しく微笑んだ。
「ううん。もう諦めたからいいの。だから私達のために怒らなくていいよ。あなたまで3年生の先輩に目をつけられちゃう」
ノリコは、この世界の"ブレザー川畑くん"を睨み付けた。
「君、なにやってるの!?見損なったよ!付き合ってる彼女にこんな顔させて。僕だったら絶対に耐えられない!」
誰かに脅されて、川畑との交際を諦めることを想像して、ノリコは身震いした。もし両思いで付き合えるようになったあげくにそんなことが起こったら、とても耐えられたものではないし、ノリコが知っている川畑がその状況を許すとも思えない。
「彼を責めないで。彼は悪くないの」
杏は川畑が自分のことで責められるのがつらくて、なんとか止めようと必死になって、言葉を絞り出した。
「……私が…勝手に好きになっちゃったのが悪いんだから」
気づいたときには、言うつもりのなかった言葉が口をついていた。
川畑が信じがたいものを見る顔でこっちを見たので、杏はヤケになった。
彼女は立ち上がると、川畑をまっすぐ見て、震える声で思いきって想いを伝えた。
「好きです!」
押しても引いてもびくともしないヌリカベ仁王が、少しよろけた。
「ごめんなさい。始めはあんなきっかけだったけど、気がついたら好きでした。話せなくても、近づけなくてもいいです。もう彼女として扱ってもらえなくてもいいです。あなたを困らせたくないです。でも……これからも好きでいさせてください」
杏の握りしめた手が震えた。
「返事は……しなくていいです」
一瞬、図書室は静まり返った。
が、その空気を無視して入り口の戸が開いた。
「おお、今日は試験前でもないのに図書室に人が多いな。結構、結構」
入ってきたのは、図書の先生だった。
「おい、図書委員くん。君の買ってきてくれた花瓶、いい感じだな。ほら、新しい花を入れたぞ。もう、不注意で落として割らないでくれよ」
先生は機嫌よく花をいけた花瓶をカウンターに置いた。
「なんだ。茅間も来ていたのか。いいことだ。君らもこれで敬遠せずに、これからも図書室に来て図書のよさをわかってくれよ。先生は気にしていないからな。花瓶の代金はちゃんと親御さんが払ってくださったし、提出書類関係はそこの図書委員くんが全部書いてくれたから」
「え?親?花瓶の代金?」
動揺する双子に、川畑は当たり前のように告げた。
「先生に価格を伺って、当事者の俺とお前らで折半にした。処理は窓ガラスなどを割った時に準じた。ただし正確には花瓶は学校の備品じゃないから、担任から処理票は回らない。そちらでする手続きは発生しないようにしておいたから、安心しろ」
「親に連絡したのか!?」
「親は関係ないじゃないか」
「金銭の補償が必要になった時点で、お前が経済的に自立していない学生である以上、保護者は関係者だろう。少額とはいえ支払いを請求するなら、事情と理由をきちんと説明する義務がある」
「まぁ、そういうことだ」
図書の先生は正論にうなずいた。
「そうだ。茅間にもうあれは渡してくれたかな」
「あ、すみません。まだ渡しそびれていました。これ、俺が先生に提出した書面と領収書類の写し。渡すのが遅くなってすまん。電子データが良ければ送り先教えてくれ。購入した花瓶の写真と領収書は、先生経由で親御さんに送付済みだから、お前から送らなくてもいいぞ。もし連絡があったら、親御さんには、丁寧な謝罪のメールをいただき恐縮ですとお伝えしておいてくれ」
青ざめて固まった双子に「お前んちのお袋さん、いい人だな。あまり心配かけるなよ」と言って、川畑は書類の封筒を渡した。
一応、自筆の署名が入っていた方がいい箇所があるからと言って、先生は双子を職員室に連れて行った。
川畑は自分の荷物を手に取った。
彼は杏と目を合わさないようにして、それでも彼女に向かって軽く会釈して、自分も図書室を立ち去った。




