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家に帰るまでが冒険です  作者: 雲丹屋
第8章 学校だけが世界のすべてだった日々

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あなたを想う花

準備室の奥で、杏はうずくまっていた。

「杏」

扉の開く音でびくりと肩を震わせた彼女は、川畑が名を呼ぶと顔を上げた。

「すまん。遅くなった」

近づくと、赤くなっていた彼女の目にまた涙が浮かんだ。川畑は彼女の傍らにいって片膝をついた。

「怖い思いをさせて、悪かった。もう、あいつらは帰ったから」

双子の話を聞くと、杏はまた目をきつく閉じて下を向いた。涙がこぼれて眼鏡が濡れる。

川畑は黙って泣いている女の子を前にして困った。相手がシャリーのように小さい子なら、ダッコして背中でもさすってあげるところだが、相手は同級生だ。しかも佐藤から、絶対に手を出すなと、接触を禁止されている。

困った川畑は、相手を怖がらせないように、翻訳さんも活用して、できるだけ優しい声で、話しかけた。

「怖がらないで。杏は俺が守る」

彼女はゆっくり顔を上げて、おそるおそる彼を見つめた。川畑は彼女の濡れた眼鏡をそっと外した。

「……ぁ」

戸惑う彼女の手に眼鏡を渡す。拭いてあげようかと思ったが、眼鏡は確か専用の柔らかい布で拭かないといけないのに気づいたのだ。

眼鏡がないと、かなり近くしか見えないといっていた彼女の言葉を思い出して、川畑は身を乗り出して、額が付きそうなほど近くまで顔を寄せてから、耳元でささやいた。

「涙、拭こう。もう君が眼鏡濡すようなことはさせないから」

"眼鏡拭き、どこ?"と聞こうとした時、うずくまっていた杏が、ペタリと座り込んだ。

「杏……?」

空気を求めるように小さく開閉する口元を、じっと見ながら言葉を待っていると、彼女は震える唇をきゅっと閉じて川畑の方を向いて目を閉じた。頬を伝った涙を、思わず川畑が親指で拭おうと手を添えかけたとき、準備室の扉が開いた。

「図書委員さん、どなたかいます?この本の貸し出し延長を……うわっ!?ごめんなさい!!」

川畑が振り替えると、入って来た女生徒はぎょっとして、あわてて出ていった。

「おい?」

川畑は立ち上がると、杏に「ちょっと仕事してくる」といって部屋を出た。


「……知らぬこととはいえ、お取り込み中のところをすみません」

「かまわん。私事だ。はい、延長手続き完了。いつも図書室をご利用いただきありがとうございます。延長した期限までにご返却ください。……延長は一度だけだからな。次はないぞ」

川畑がカウンターから立ち上がって、微かに笑って本を渡すと、女生徒はなぜか川畑をぼおっと見上げた後で、はっと我に帰って、あわてて本を受け取って帰って行った。


川畑は気づいていなかった。

彼が翻訳さんに"いま変な格好してるけど、それで怖がられないように違和感消して、優しい感じに"と指定した結果、いつも通り都合良く曲解した翻訳さんは、川畑を"ちょっと危険な感じのワイルド系だけど、実は優しいの"という乙女回路全開の方向にシフトさせていた。今の彼は、普段の"地味で目立たない"指定が外れた上で、濡れた髪や、ボタンが取れて開いた襟元から、翻訳さん渾身の色気を振り撒きまくっていた。


「終わったぞ。帰ろうか」

川畑が準備室を覗くと、杏は、多少、落ち着きを取り戻していた。それでも川畑の顔を直視できず、視線をさ迷わせていた彼女は、チラチラと川畑の襟元を見た。

「……あの…そのカッコ……」

「そうだな。タイぐらいはちゃんとしておかないと」

「ボタン……とれてるね」

「参ったな。直しに出すと洗い替えが足りなくなる」

「今、つけてあげようか」

「え?今できるのか?」

杏はポケットの中から小さなソーイングセットを取り出した。

「なんだそれ。カッコいいな」

川畑は小さなソーイングセットを、興味津々に覗いた。

「特注?」

「まさか。女の子が普通にみんな持ってる奴だよ」

「女子ってこんなもの持ち歩いてるのか」

盗賊道具(シーフズツール)キットのようだと川畑は思った。中高一貫の男子校に通っていた彼は、女子がいかにたくさんの小物を持ち歩くか知らなかった。

「こんな小さなハサミ初めて見た」

「安物だからこれはほとんど切れないの。でもボタン付けで糸を切るぐらいはできるよ」

「じゃあ、頼む」

川畑はネクタイを解くと、カッターシャツを脱いだ。

杏は自分で言い出しておきながら、シャツを脱がないとボタンは付けられないという単純なことに、今さら気づいて狼狽した。

「あーあ、やっぱ中まで濡れてる」

川畑はカッターシャツを杏に渡すと、少し濡れていたアンダーシャツもついでに無頓着に脱いで、それで頭を拭いた。杏は気絶しそうな気持ちで川畑のシャツを抱えた。

「じゃあ、ここに座って」

「……はい」

川畑が引いてくれた椅子に座って、ボタンを付けようとした杏は、取れたボタンはないかと川畑に尋ねた。

「なければ予備のを使うけれど、あるならそのままつけた方がいいから」

「カウンターのどこかに落ちてるかもしれないな。探してくる」

「あ……」

杏が止める間もなく、川畑は上半身裸のままで準備室を出ていった。図書室の方から小さな悲鳴が複数上がったのが聞こえて、杏は顔を覆った。




その日の夜、杏は自分の部屋で、机の上の小さな鉢植えを見ながら、ため息をついた。

あの後、杏の手際がいいと絶賛しながら身なりを整えた川畑は、いつも通り彼女を送ってくれた。帰る道すがら、彼はふと花屋の前で足を止めた。どうかしたのかと視線で尋ねると、彼は店先に飾られたミニバラの鉢をしげしげと見て、突然「うん。こんな感じだ」と、一人で納得した。


「なに?」

「いや、杏ってこんな感じだよな、と思って」

彼が指差したのは、淡いピンク色の小さな花だった。

「杏は、可愛い」

誰かに力説するように、ぐっと拳を握りしめて川畑は断言した。

杏はミニバラよりも赤くなった。

「かわいい彼女さんね。お花のプレゼントかな?リボンかけましょうか」

「あ、はい。……いる?」

杏は思わずうなづいてしまった。


机の上の、レース柄のシートと可愛いリボンで飾られたミニバラの鉢を、杏はしげしげと眺めた。

「どうしよう。私こんなに可愛くないのに……」

彼はこんなに可愛く自分を見てくれているのかと思うと、どうしても緩んでくる頬を、杏は両手で押さえた。頬は恥ずかしいほど熱かった。

「ううう…」

目を閉じると、あの衝撃の筋肉が脳裏に浮かんだ。TVで見るムキムキマッチョさんとも、水泳の時に見るクラスの男子達ともなにか違う、やたらに丈夫そうながっしりした体だった。

「(触らせてもらえば良かった)」

そうちらりと考えてから、自分があのゴツい腹を撫でているところを想像して、杏は撃沈した。


そういえばお互い指一本触ったことないなと気づいて、杏は準備室でのことを思い出した。

「(キスされるかと思っちゃった)」

彼の顔がすごく近づいて、指先が軽く耳の後ろの髪に触れて……。


「ぎゃーっ、ダメだぁああっ!」

リビングにいた杏の家族は、常にない奇声が杏の部屋から聞こえてきたのに顔を見合わせた。

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