青空と金時計
1、2 ……
派手な上着を羽織ったキャプテンは、甲板から泡のたつ海面を慧々と光る眼で睨んだ。
…… 3。
「ボンドぉ、キャプスタン回せ!」
「あい!キャプテン」
巻き上げ機がロープを巻き取る。
高いマストの上の滑車を経由したロープは、帆が畳まれた帆桁の端を通って、海中に真っ直ぐ伸びた。
テンションがかかったところで、一旦止まったロープが、それでも徐々に海中からなにかを引き上げる。
キャプテンは船縁に足を掛け、派手な帽子をぐいっと被った。
「陽の目も知らん下等生物に、晴れの舞台を拝ませてやろうじゃないか」
ロープの先の海面が膨らんだ。
「ハレルヤ!」
キャプテンが左手を振り上げた瞬間、暗かった空が天頂から一気に真っ青に晴れ上がった。
水面が爆発するように、白銀の巨体が飛び出し、水飛沫がキラキラと舞う。
こらえきれずに主が開いた口から、ロープの端……ロープが括り付けられた浮き輪をしっかり抱えた川畑が吐き出された。
「うぉお」
巻き上げのスピードが急に上がって、川畑は一気に帆桁までつり上げられた。
「装填完了」
青空を背景に垂直に跳ね上がった主に向かって、キャプテンは右手の銃を向けた。
「ばーん」
フリントロックの擊鉄がカチリと落ちた。
浮き輪が滑車にぶつかった衝撃で、川畑は帆桁に体を打ち付けた。
一瞬、息が詰まったが、そのままだと宙に投げ出されるので、必死に帆桁の下に張られたフットロープを掴む。勢いで持っていかれそうになる体を腕力で引き付け、反動を利用して、逆上がりの要領で桁に無理やり乗った。
轟音と共に、眼下で主がゆっくりと海中に没していった。
滅茶苦茶に揺れる帆桁の上から、甲板を見下ろすと、派手な格好をしたキャプテンが大笑しながらこちらのマストの方に歩いてきていた。
ボンド少年から受け取ったマントを芝居がかった動作で羽織ると、キャプテンは澄ました顔で、胸に手を当てた。
「こんなもんでどうだろうか?お嬢さん」
髭が自慢そうにピンっと跳ねる。
ノリコは酷い揺れでそれどころではない状態であったが、帆桁の上で川畑が無事なのを確認して、安堵の息をついた。
「ありがとうございます。キャプテンさん」
「……。ご満足いただけたようで結構。一人で立てないようならお手をどうぞ」
ノリコは、手を差し出したキャプテンを訝しげに見返した。
「追加サービスだ。あれと話ができるところまで連れていってやろう」
キャプテンは、座り込んでしまって立てないノリコを片手で抱え上げると、メインマストから下がったロープの1つを手に取った。
「しっかり捕まっていた方が安全だぞ」
キャプテンがロープをほどくと、頭上から砂袋が落ちてきて、砂袋がついたロープの逆端を握ったキャプテンとノリコは一気に帆柱の中程の見張り台まで引き上げられた。
「わあっ」
高い。狭い。揺れる。と、三拍子揃った見張り台は、帆柱の回りに張り出した狭い板があるだけの代物だったが、見晴らしだけは良かった。
澄みわたった青空の下、青い海と白い砂州がどこまでも広がり、蛇行する川が空を映してキラキラと光っていた。
「のりこ!無事だったか?」
「いや、それむしろこっちから聞かなきゃいけないぐらいだから!」
「俺なら大丈夫だ」
ぐったりと桁に掴まっていた川畑は、キャプテンを睨み付けながら、帆桁の上に膝立ちになった。
「キャプテンセメダイン、助けてくれたことには礼を言う」
「なんのなんの。我が愛しのお嬢さんの頼みだったからな」
キャプテンは鷹揚にうなずくと、見張り台にノリコをそっと下ろした。
「ここのロープを腰に巻きたまえ。不安ならワシに捕まっていてもよいが」
ノリコはあわてて、帆柱に結わえられた短いロープを持った。
キャプテンはノリコと川畑の間に入るように立ち、腕を組むと、川畑に向かって顎をしゃくった。
「どうした、膝などついて。ワシの威光にひれ伏したいなら構わんが、サシで話をする気なら立て」
川畑は奥歯を噛み締めた。ゆっくり揺れる帆桁の上は、素人が立つには不安定だった。
「迎えに行って手を引いてやってもいいぞ」
キャプテンはマントを翻しながら悠々と帆桁の上を歩いた。
川畑は憤然と立ち上がった。
「話がある」
キャプテンはにやにやしながら、無言で続きを促した。川畑はポケットにしまっていたものを取り出した。
「時計だ。主の腹のなかで拾った」
「それで?」
「お前が探していたものだろう。これをお前に返す。だから彼女を帰してくれ」
「女性を物々交換の天秤に載せるのは、誉められた態度とは言えんぞ。……だが、まぁ、また混ぜっ返してもしょうがない。そいつは受け取ろう」
こいつわざと煙に巻いてやがったのか、と眉間にシワを寄せると、キャプテンは肩をすくめた。
「人は物では代えがきかんが、代えがきかんものは余人をもって代えがたい」
「?」
「重要なもの以外は、重要ではないということだ」
「何が言いたい?」
「重要でない戯れ言だ。聞き流せ」
キャプテンは小バカにしたように鼻で笑った。川畑の握った拳が震えた。
「余裕のない男だな」
「1日に2回も怪物の口に入って余裕を持っていられるか!」
「そいつは経験不足だ」
げんなりして脱力した川畑から、キャプテンは時計を受け取った。
「確かにワシの時計だ。……ふむ。礼という訳でもないが、ひとつ面白いことを教えてやろう。貴様、この世界をなんと見る」
「どうって……」
帆桁の先から、あらためて辺りを見回す。
青い空、青い海と白い大地がどこまでも広がていた。
「……地平までの距離感がおかしい。なんだコレ?惑星じゃないのか?というかそもそもこの青空の光源はどこだ!?」
空のどこにも太陽がない。
キャプテンはバカ笑いした。
「青空なんて青いから青いんだ」
「そんなわけないだろう!」
「頭が硬いぞ青二才。原理がなんだ。私が青と決めたら青でいい」
「いいわけあるかっ!無法者め」
「わがまま言うなら押し通せ!さあ、よく見てみろ。そんなはずがないなら、どんなはずなんだ?」
緑色の眼が川畑を射ぬいた。
「世界を想起せよ!」
世界っていうのは……。
目の前で、キャプテンが金色の懐中時計の上蓋を開いた。スケルトンの文字盤の中で、金色の歯車が回り、秒針が動く。
厳格な法則。整合性による秩序。相互に絡み合った因果関係と反応の連鎖。1つの事象の発現に関わる無数の理。
そういうものだろ!?
すべての感覚の枷が外れたような解放感の直後に、世界自体の構造がたわんで曲率が変わったかのような目眩がした。
パチン
時計が動くのを確認して、キャプテンは蓋を閉めた。
川畑ははっとして目を上げた。丸い水平線の向こうで、東の空がうっすらと薔薇色に染まっていた。
どうやら一面の青空だと思っていたのは、闇に慣れた目で夜明け前の空を見て、実際より明るく感じていただけだったらしい。光量がなかったので、地平線付近の塵や水蒸気が散乱する光と地面の明かりの区別が付きにくく、空との境がよくわからなくなっていたようだ。
「なるほど」
キャプテンは時計をしまった。
ふらついて落ちそうになった川畑の左手首を掴んで引き寄せると、密談するような低い声で尋ねてきた。
「怪物に2度会ったと言ったな。1度目の奴はどうした。殺したか」
「カッターナイフ刺したら倒れた」
「難儀な怪物め。それで監査官がくっついとるのか」
キャプテンの視線をたどって下を見ると、甲板で帽子の男が少年と2人で騒いでいた。
「だから、キャプテンのお邪魔をしちゃダメですって~」
「ああもう、そんなこといってる場合じゃないんですよう。主を撃ったりするから、力が弱まっちゃってえらいことに……」
「あ!キャ~プテ~ン。そっち終わりました~?早く降りてきてくださいよう」
「ボンドぉ、ストッパー外せ!今そっちにいく」
キャプテンは川畑の肩を軽く叩いた。
「お前はお嬢さんと一緒に、メインマストから降りてこい。直に風が出るから急げよ」
「えっ?ちょっ……」
キャプテンは帆桁の端に引っ掛かっていた浮き輪に足を掛けると、ロープで一気に降りていった。残された川畑は帆柱の方を見た。結構な距離がある。
見張り台ではノリコがぐったりと座り込んでいた。
「のりこ!今そっちに行く」
「ごめん。船に酔ったみたい……揺れがひどくて目眩が……」
ノリコはふらつきながら立ち上がった。顔色が青かったが、それでも川畑の方を見てにっこり笑って手を小さく振った。
「無理するな。そこで待って……」
そのとき、船底から突き上げるような衝撃が船を襲った。




