名前も知らないくせに
稲妻がはしるアンモニアの雲の上を、暁烏は流星のように飛んだ。もっとも、このインチキ流れ星は燃え尽きる気配はさらさらなかった。
「CP、チェック」
「ようし、パワードスイングバイでいくか」
「推力上げるなら、ここよりいい条件の気流が用意できる。隣の縞との間にできた渦の端だ。少し極方向に上がってくれ」
「わーった」
アトラスの惑星座標にアトモスの気象データが重ねて表示された正面モニタを見ながら、MMは機体をわずかに傾けて、大気の層の間を滑るように飛んだ。
「マリー、俺達ゃ何を見てるんだ?」
「狂烏め、悪魔と契約でもしてるのか」
オディールの二人は、宿泊棟の小さなモニタでレース実況を見ながら、呻いた。
「対流圏付近まで降下してこの速度はあり得ない。燃え尽きないとしてももっと減速せざるを得ないはずだ。運営の観測ミスか、何か測定のごまかししてんじゃないのか」
「そんなレベルの話じゃねぇ。奴らが通るタイミングに合わせたみたいに、白斑が縮小して、ルート付近の乱流が収まってる。運がいいなんてもんじゃねぇよ」
熟練ナビゲーターとして、ここの惑星の大気についてはかなりの下調べをしていたコパイロットは、人知を越えた現状を飲み込むために酒をあおった。
夜半球側のCP上空からの映像では、時折、稲妻がはしる闇の中を、不思議な色合いの光点が通過していくのが確認できた。実況で表示されていた42番の予想タイムが変わった。タイムボーナスが入って一気に暫定順位が上がったようだ。
「待て、進路が変わった。トラブルか?」
コパイロットは、酒を放り出すと、手元の個人端末で惑星の気象データをチェックした。
「いや、風を選んだんだ……って、なんでここにこんな気流ができてるって分かるんだよ!運営の気象観測データは、船には提供されないし、リアルタイムじゃないから、あのタイミングでの判断はおかしいだろうがよ」
「まだ加速する気か!?バラバラになるぞ」
新しく生まれた気流の渦にうまく乗って、狂烏は弾かれたように加速した。マリーは、42番のクソパイロットを呪いながら、こっそり昨日の坊やの無事を祈った。
暁烏は、3位に僅差の暫定4位で、無事にSSを終えた。
「最後に調子に乗って加速しすぎるから、予定より膨らんでロスが出たんだぞ」
「……わーってら」
「最後の直線SSはイレギュラーなしで行こう。普通に行けば十分1位を取れる」
「あ、それなんだけどさ」
MMはいい提案をするみたいな顔で切り出した。
「ヴィクトリアちゃんの船を1位にしてあげてもいいか?」
「はあっ!?」
川畑はMMの正気を疑った。
「いや、だって俺達、極輪いやぁ、カーティスが最後のパーティーでちやほやされる立場にたてりゃそれでいいんだろ?1位でも2位でもあんまり変わんなくね?だったら、1位はヴィクトリアちゃんに譲ってあげてもいいんじゃないか。彼女、どうしても1位にならなきゃならない深い事情がいろいろあるらしいんだよ」
「深い、いろいろってなんだ」
「それは聞いてないけど……彼女の様子から察するに相当な事情だと思うよ」
川畑は極めつけのバカを見る目でMMを見た。
「カ~ップ!昨夜、俺と別れて飲みに行った後のジャックの行動記録提出しろ」
「ええ?カップは一緒じゃなかったぞ?」
「大事なパイロットを1人でふらふらさせるもんか。緊急事態用に連絡係は常時つけてる。プライベートを詮索する気はないから、内容はチェックしてなかったが、アホなこと言い出すなら話は別だ」
MMはひきつった顔で胸ポケットにいる青い妖精を見た。
「カップ……見てたの?」
「ジャックはみえてなかったよね」
MMは顔を覆った。
「勘弁してくれ」
「俺に見せられないようなシチュエーションでされた話なら、一切信用しない。おっさんからの依頼は"1位を取れ"だ。優勝と2位以下でどんな扱いの差があるのかわからん。ちゃんと仕事してくれ。ジャックがちゃんとしてくれるなら、俺はこれ以上詮索しない」
MMは渋々うなずいた。
「あーあ、ヴィクトリアちゃん、すまねぇ。うちには小うるさいガキんちょがいるんだ。はぁあ、いやんなっちまうなぁ」
「いまだに名前も教えてもらえなくて、ヴィクトリア(仮名)呼びなんだから、脈がないのぐらいわかれよ」
「けっ、それをいうなら、お前と俺もいまだに"ジャック"と"ロイ"でお互いまともに相手の名前なんざ、知らねーじゃねぇか」
川畑はムッとして、特に大したものは映っていない正面モニタを睨んだ。
「あんた、俺の事情はいつも聞きたがらないじゃないか。しょっちゅう"聞きたくない"だの"聞かなきゃ良かった"だの言ってる奴に、個人情報なんて明かすかよ」
「はっ!ほざけ。お前こそ他人の身の上や事情なんて興味ねーじゃねーか。そりゃそうだよな。お前はこの世界で好き勝手するのに都合がいいから俺を利用してるだけなんだから」
「な、そんな言い方ないだろ!お前がもう少し一緒にいてもいいっていうから……」
「結局、一通り満足して興味がなくなったら、さっさといなくなっちまうんだろ」
川畑は口をつぐんで、眉根を寄せた。
「ずっと組む気もないくせに、相棒ヅラして、俺にいろいろ指図すんなよ」
捨て台詞を吐き出して、MMはパイロットシートの背にもたれて腕を組んだ。乗り気でない時の態度だ。MMは1つため息をついて、だらしなくふんぞり返り、足を投げ出した。
「なんか、一気にどうでもよくなったなぁ。……やる気でねぇ」
船内に嫌な沈黙が流れた。
突然、MMはアスファルト道路に落下した。
「は?」
椅子にのけぞっていた姿勢から、そのまま背もたれを失った上体が、標準重力に引かれて地面に転がる。
「なんだ!?」
ひっくり返ったまま見上げると、見慣れない黒い服を来た"ロイ"が、彼を見下ろしていた。中天にかかった黄色っぽい日差しで、逆光になった顔から表情はうかがえない。
「惑星地表?なんで?」
MMはブルーロータスの1件からこちら、ずっと彼とリンクしっぱなしたった感覚が切れているのに気がついた。視覚や聴覚の情報以外に微かに感じていた彼の感情や表情のニュアンスが全くわからない。
脈絡なく見知らぬところに放り出されて、馴染みのあるものすべてから切り離されたMMは、その孤独感に青ざめた。MMは宇宙艇で単独航行してきた男で、独りであることが苦にならないタイプだった。しかし、知らない世界のただ中で自分だけが異物であることを感じるのは、自分の愛機で何日も独りで過ごすのとはわけが違った。
呆然としていると、大きな手が伸びてMMの胸ぐらを掴んだ。同時にまた一瞬重力が消える感覚があり、MMは転移させられた。




