ワニ
名前を呼ばれた気がして、ノリコは顔を上げた。
暗い部屋は、しんと静まり返っている。
「もう、帰れないのかな」
家族や友達のことを思う。二度と会えないかもしれないと考えると、胸が苦しくなった。
寝台の上で膝を抱えていたノリコは、部屋にひとつだけ灯ったオレンジ色のランプを見つめた。
寝室に窓はない。戻ってきたとき、客間の窓の外は暗かった。今が何時なのかはわからないが、もうずいぶん時間がたったように思う。
「眠れないけど、ちゃんと寝よう」
ノリコはずっと着ていたシャツを脱いで畳んだ。
「おっきいな……。ずいぶんシワにしちゃった」
洗ってアイロンも掛けてから返さないと、と考えながら、これを貸してくれた男の人のことを思う。……毎日、見ていた写真の人だった。まさか会えるとは思わなかった。突然、部屋に現れて……あれからの全部が夢の中の出来事のように思える。
ノリコはシャツを返す宛もないことに気がついた。
もう誰にも会えない。
急に寒さを感じて、ノリコは畳んだシャツを抱き締めた。
誰もいない部屋はとても静かで、彼女の名を呼ぶ声は、聞こえなかった。
「だから、名前なんて呼ばなくてもいいだろう。履歴から選ぶだけなんだから」
川畑は、肩で息をしながら、ややかすれた声でぼやいた。
「気は心ですよ」
「理屈が通る話を持ってこい」
うへぇ、と帽子の男は嫌そうな顔をしたが、川畑は無視した。
「とりあえず発動方法は大体わかった。……発動タイミングが難しいな」
「呪文やキーワードを発声する人もいますよ」
「呪文?」
「"開けゴマ"とか」
川畑は左手を足元にかざした。
「開け」
足元に黒い穴が開いて、川畑は穴に落ちた。
川畑は砂浜に落ちた。
砂粒の中では小さな灯がキラキラと光っている。……元の海岸だ。
「くそっ、この毎回、落ちるのはどうにかならないのか?出現位置の調整方法がわからん。そもそも転移前後の速度は何で決まるんだ?」
「うわぁ、ホントに一発で成功させましたね~、すごいや。で、何か気になることでも?」
川畑は砂を払いながら立ち上がって、真顔で聞いた。
「転移前の俺は地面に対しては静止していたが、自転だの公転だの銀河レベルでの移動だの、視点によっては凄い速度で運動している質量点な訳だろう?それを別世界に移動させるときに、慣性ってどうなっているんだ?」
「は?」
「方法はわからんが、慣性を単純に全部キャンセルしてるだけなら、出現後に地面に真っ直ぐ落ちるのはおかしいんだよ。……出現点の最も近くにある大質量を基準に相対速度を合わせてるのかな?一番影響のある重力が垂直方向に働くように調節しているなら、縦穴型の設計思想もわからんでもないが」
「細かいこと気にする人だなぁ」
「いや、時空転移なんてするなら、そういうの気にならないか?」
「あまり気にしない方がいいですよ」
「バクテリアとか一緒に転移して、汚染してないかとか、転移先の異界が1G呼吸可能大気気圧気温オールOKのハビタブル世界ってのはどういうことかとか、コレうっかり真空や高温高圧環境に穴繋げたら、転移元も大変なことになるんじゃないかとか、いろいろ気になるんだが」
「いや、ホントに気にしないで欲しいですけど。ああ、転移先の選択に関しては局のデバイスに安全装置が入っていて、不味いところには繋がらないようになっているはずです。あとは認識可能な世界にしか転移できないので、人間原理っぽいものが働いていると思っていただければ近いかと……」
川畑は胡散臭いものを見る目付きで足が透けている帽子の男を眺めた。
「人間モドキに人間原理といわれても」
「ひどいっ」
「人がましい文句は、地に足を着けた生活をしてから言えよ」
「だんだん遠慮がなくなって、口悪くなってますよね!」
川畑は帽子の男の文句は聞き流して、辺りの様子を確認した。
時間が少しずれたのか、オーロラは消えており、空は暗かった。ノリコを残した林に人の気配はなく、浜に向かう足跡が残っているだけだった。浜には川畑が運んだ木がまだおいてあった。
「あれ?本数が増えている?」
運んだ3本以外に、なにやらもう少し太くて短いのがある。木と同じように白いが、やや質感が違っていて、形が変だ。
「足が生えてる?」
木の横に横たわっていたなにかが微かに動いた。
「ワニだ」
それはワニのように見えて、ワニのように動いた。
「なんでワニがこんなにたくさんいるんだ?」
改めて見ると、河口から沖に向かって、かなりの数のワニの背が見えた。
「主が眷族を呼んだみたいですね」
「ここの主はワニか」
「前回の主よりは、多少マシな知能の主です。キャプテンが現れて世界に異変が起きたから、警戒してこの辺りに眷族を配置したのでしょう」
「こいつら警備兵か?」
「そんなに上等なものじゃないです。ただのオブジェクトキャラクターなので自立した知性も情動もないですから。せいぜい番ワニぐらいの役にしかたたないはずですよ」
「自立した知性と情動のあるワニってのも嫌だが、番ワニって……」
「決められたパターン通りの動きをするだけなので、あまり気にしなくていいです。背景の賑やかしです」
川畑は、たくさんのワニで貯木場みたいになっている海を眺めた。
暗かった海が、白いワニでやや明るい。たしかに枯れ木も海の賑わいといった風情だった。
「あ!あれを」
てんでばらばらに浮かんでいたワニが一斉に向きを変え始めた。まるで磁石と方位磁針の実験のようにワニの鼻先が揃って向いた方向を見ると1隻の帆船が暗闇から現れた。
ほとんどの帆を畳んだ状態だが、堂々たる様子の美しい船だった。
「キャプテンの白昼夢号です」
あまり眠れなかったが、それでも少しだけ休んだノリコは、それ以上無理に眠るのを諦めて起き出した。
「キャプテンにお願いして、もう一度、元の海岸に行ってみよう。なにか手がかりがあるかもしれないし……」
彼が戻ってきているかもしれない。
結局、抱きしめたまま寝てしまい、シワだらけにしてしまったシャツをもう一度着る。
「よし。勇気出せ、私」
大きくひとつ深呼吸をしてから、ノリコは扉に向かった。
「キャプテンは甲板にいますよ~」
寝ぼけ眼のボンド少年に案内されて、ノリコは甲板に出た。
「おはよう、お嬢さん。良く休めたかね!」
軽装でなにやらロープ類を手繰って作業していたキャプテンが、目敏くノリコを見つけて声を掛けてきた。
闇のなかで、少年の手元の小さなランプの明かりに照らされたキャプテンは、目だけがギラギラと緑色に光っていて怖かった。
「おはようございます。……あの、何をなさっているんですか」
キャプテンは大袈裟に両腕を広げて、芝居がかった調子で答えた。
「なあに、ちょっとした探し物があってね。そのためにこれからワニ釣りをするところだよ」
キャプテンは髭をピンと立てて、ニヤリと笑った。
「釣りには疑似餌がいるんだが、手伝ってくれるかね?」
楽しそうには見えるが笑っていない目付きで、キャプテンはノリコに鉤のついたロープの先と、白いドレスを差し出した。
3本マストの全装帆船、白昼夢号。船首と船尾にクラシカルな装飾が入ったスマートな白い船体は、海賊船というよりは、海の貴婦人という風情だった。
「キャプテンって、あの高笑いする海賊コスプレ親父だよな?」
「はい。キャプテンセメダイン、住所不定無職、自称時空海賊の刹那的愉快犯、外連味大好きで、我が儘で、はた迷惑な、頭のいかれた中年親父です」
今一つ船長と船の印象が一致しないなと思いながら、川畑は闇に目を凝らした。砂浜に残っていた足跡から判断するならば、ノリコはキャプテンセメダインとやらと一緒にいる可能性が高い。そいつが帽子の男が言うとおりの人物なら、普通の女子高生が一緒にいていい相手ではなかった。巻き込んでしまった者の責任として、絶対に助け出さねばならない状況だ。
危機感をつのらせながら海面でぼんやりと光るワニの明かりを頼りに船の様子を伺うと、甲板に人影が見えた。
キャプテンとおぼしき人影が、甲板から張り出した長い横木を動かす。横木の先には滑車でもついているのか、釣竿のようにロープがついていた。
人影が一抱えほどのなにかを海面に向かって投げ落とした。その白い固まりは丁度小柄な人間ぐらいの大きさで、横木から垂れたロープの先に、力なくぶら下がった。
海面に群れたワニの鼻先でその白いドレスの長い裾が揺れた。
「のりこぉおーっ!」
川畑は船に向かって猛然と駆け出した。
特訓の成果。




