不要で効果的な特訓
「また、ここか」
川畑は、花柄のシーツに突っ伏した。不味いことに、そろそろこのベッドの感触に馴染み始めた気がする。
「すごいですね。たった1時間程度の説明で、いきなり"ひとつ前へ"の転移をズレなしで成功させるって、天才ですか」
「お前の説明でなければ、もっと早くできた」
「ええ~、基礎理論どころか概念も用語も共有できてない相手に教えるのって難しいんですよ。でもちゃんと、あれをこうちょいちょいっとやったら、うまくできたでしょ」
「指示代名詞とオノマトペとフィーリングだけで説明すんな」
川畑は起き上がって、ノリコの部屋を見回した。机の上の写真をもう一度見る。
長々とここで喋ってもいられない。
「とにかく、もう一度同じようにすれば、もうひとつ前にいけるんだな。いくぞ」
「あ、ちょ、ま……」
黒い穴が出現した。
川畑は空中に放り出され、そのまま派手な水しぶきを上げて海に落ちた。あわてて海面に顔を出した川畑は、自分がすっかり包囲されていることに気づいた。
「お兄さん、また来てくれたのね」
「一緒に泳ぐ気になったの?大歓迎よ」
かわいい人魚達は、虹のかかった入り江で楽しそうに跳ねた。
「くそっ、"ひとつ前"って、前々回には戻らず、本当に毎回直前の転移元に戻る設定か」
大丈夫ですか~と、呑気に岸で手を降る帽子の男を横目で見ながら、川畑は毒づいたが、結局そのまま人魚達に捕まり、しばらく付き合わされた。
「ひどい目に遭った」
「モテモテでしたね」
「喰われるかと思った……」
「あちこち噛られてませんでした?」
「思い出させるな」
川畑は岩の上に干したズボンと下着類をひっくり返した。まだ裏面が乾いていない。
「とにかく"ひとつ前"では目的地まで戻れんから、次の方法も教えてくれ」
「きゃっ、殿方と二人っきりで個人レッスンだなんて恥ずかしいっ」
「絞め殺す」
「触れないから平気です」
ものすごい形相で睨まれて、帽子の男は素直に、"履歴で戻る"転移方法の解説を始めた。
服がすっかり乾いた頃。ようやく川畑は、分かりにくい説明が理解できてきた。
「なんで"引き出しを開けて、入っている靴下の中から、昨日しまった靴下の下の、最近はいた覚えのある靴下を選ぶ感じ"とか、わけのわからない例えを出すんだよ。最初から、"メニューで最近使った履歴から選択"って言えばいいだろ!」
「20~21世紀初頭の地球産コンピューターグラフィカルユーザーインターフェースの用語が、あなたの文化的背景に含まれていることに気づくのが遅れました。会話をするときの仮想個人文化背景情報を更新しておきます」
「お前は説明が難すぎるか、雑すぎるか両極端なんだよ!」
「発動手順はマスターできたみたいですね。やっぱり、びっくりするほど筋がいいですよ。あとは、転移先のイメージをどれぐらい明確にできるかが、正確な転移の決め手です」
「イメージ?」
帽子の男は何もない砂浜を指差した。
「あそこまで歩いてください」
川畑は指された辺りへ行った。
「次にあの貝殻が落ちているところまで行ってください」
また、示されたとおりに動く。
今度はあの辺り、もう少し右に。と、何度か好き勝手な指示を出した挙げ句、男は言った。
「初めに指した場所と2番目に指した貝殻のある場所に戻ってみてください。戻れますか?」
川畑は正確に最初の2箇所を辿った。
「ええ!?なんで行けちゃうんですか?そこは貝殻のある方だけしかわからなくて、"ああ、なるほど。イメージ大事だな"ってなるところでしょ!」
川畑は貝殻を拾った。
「砂浜で歩いたら、足跡残るんだよ。それにあの程度ならどこをどう動いたかぐらい覚えてる。変な例え話を挟まずに、必要なことを教えてくれ」
川畑が投げた貝殻は、あんぐり口を開けた帽子の男をすり抜けて、砂の上に落ちた。
「たしかに、部屋に転移したときは、かなり正確に戻れたのに、ここに戻ってきたときは、ずいぶん変なところに放り出されたな。転移先をイメージできているかどうかっていうのはそういうことか」
それにしても初心者が最初っからあの精度で転移できるのはすごいんですが、と帽子の男は呆れていたが、理解は間違っていないと頷いた。
「転移先の世界、もっと絞り混むには行きたい場所、会いたい人のイメージをできるだけはっきり強く持つんです」
「はっきり強くイメージだな」
川畑は彼女のことを思い出してみた。
亜麻色の髪……茶髪とも金髪とも違う柔らかな色合いの長い髪と、榛色の眼。そういえば、目を見開いても黒目がちって凄いな、というのが第一印象だった。榛色の瞳って実際に見るとこうなのか、としげしげ見いってしまったので良く覚えている。眼球の直径なんて人ごとにそれほど変わるわけないのに、目が大きく見えたのは、顔が小さいせいだろう。
「部分だけじゃなくて、全体像も思い描けるといいです」
身長は女の子としては低くはなかった。流石に長身の川畑と比べると頭ひとつ違ったが、それでもスラッとしていた。全体に色素が薄いのか、肌も白かった。とくに最初に間近で見たときは驚いて……。
「視覚的な情報だけじゃなくて、触感とか匂いとか、その他の感覚もあわせて思い出して」
思わず抱き止めたときは、ずいぶんと柔らかくて華奢なことにびっくりした。コレは落としたらまずいとしっかり抱えてみたら……意外に……。
匂いは……ああ、風呂あがりなんだなと思って……。
「どうですか?行きたい場所のイメージはできましたか?」
「場所かよ!」
耳まで赤くなって川畑は叫んだ。
「人を特定するなら、名前を呼ぶのもいいですよ」
「彼女の名前、呼んだこと無いんだけど」
「じゃあ、練習してみましょう!」
川畑は当惑した。
「の…りこ……さん?ちゃん?」
「敬称略で」
「のりこ……?」
知り合って間もない女子の名前をいきなり呼び捨てというのは、なかなかハードルが高い。
「もっとはっきりと」
「……のりこ」
「やる気あるんですか。もっと本気で!」
「のりこ」
「大きな声で」
「のりこ!」
「もっと心を込めて!」
「のりこ!!」
「助けたいんでしょう?」
「のりこ!!!」
「腹の底から力強く!連呼」
「のりこ!のりこ!のりこ!のりこぉ!!」
「まだまだぁ、もっと熱くぅ!」
調子に乗った帽子の男のせいで、川畑は海に向かってさんざん絶叫させられた。
「のりこぉぉお~!!!」
川畑の理性のタガが外れてゆく……。




