さよならは言わなかった
「おーい、もうすぐ地球の出だよ」
「はーい、今、行くわ」
ノリコは軽く両足で跳ねるようにして、展望室のベンチにいる川畑のところに行った。
「低重力での移動が上手くなったね」
「そうでもないよ。まだ跳ねすぎちゃう」
「じゃぁ、やっぱり俺が運んであげるとするか」
川畑はノリコを抱きかかえた。
「もう。そんなことばっかり言ってるから、一人で歩くのちっとも上手くならなかったじゃないの」
川畑はノリコの文句を聞き流して、ベンチに腰かけた。
「いいよ。月での歩き方なんて覚えなくたって」
「……そうね」
二人は黙って、月の地平線から地球が昇ってくるのを眺めた。
「これで、この旅行もおしまいか……いろいろ大変なこともあったけど、楽しかったな」
川畑は彼女を後ろからぎゅっと抱き締めた。
「君を失いたくない」
彼女は川畑の大きな手に、そっと自分の手を重ねた。
「ダメだよ。やっぱり私はニセモノだもの。わかるんだ。元の本物にない記憶が積もれば積もるほど、頭の芯がふわふわして、不確かになっていくの。多分、記憶のマージなしでは長く存在できないようになってるんだよ。おそらくもうほとんど限界だと思う」
彼女は川畑の顔を見上げて、彼の前髪をすいた。
「そんな顔しないで。私は本当に幸せに過ごせたんだから」
思い出を反芻するように、静かに目を閉じて、彼女は川畑の胸に身体を預けた。
「あなたといっぱい一緒にいられて嬉しかった。代理の私の"ゴッコ"に付き合ってくれてありがとう」
「ゴッコとかそんなつもりじゃない。俺は本当に君を……」
彼女は川畑を見上げて、唇に指を当てた。
「ゴッコだったことにしましょ。あなたに本物の思いがあるなら、それは本物の私にあげて」
泣きそうな顔で笑った彼女は、綺麗だった。
「ごめん。君を救いたいのに、なにもできない」
「いいの。もう十分に愛してもらったもの。だからそんなに自分を責めないで」
彼女は立ち上がって、川畑の手を引いた。
「ね、あっちに面白いものがあったの。一緒に見に行きましょう」
展望室の地下には古い文化遺跡が保存されていた。
「ここはね。地球から月に来た人たちが、最初期に作った施設の1つなんだって」
彼女は解説のパネルを指差した。
「研究施設でも観測施設でもない、月面初の民間施設。なんだと思う?」
「工場?」
「ハズレ。正解は結婚式場なんだって。面白いよね」
「えええ……」
「ハネムーンの終わりが、月の結婚式場って、なんだか逆さまだけど素敵じゃない?」
困惑する川畑を、彼女は笑って見つめた。結婚式になら一世一代の高額を奮発できるロマンチック回路は、おそらく彼には搭載されていないだろう。
「ここで恋人とキスをするとハッピーになれるんだって。こんな未来っぽい世界でも、観光地のジンクスは変わらないんだね」
「世界の根元なんてどこもたいして変わらないよ」
「愛は不変ってことね」
彼女はレースのついたハンカチを頭に被った。
「ハッピーエンドにしましょ」
二人は古い結婚式場の遺跡で、陳腐なジンクスにしたがった。
最後のスリーブモードに入った彼女の髪を整え終わると、川畑は帽子の男を呼び出した。
「やぁ、こんにちは」
いつも通りな帽子の男を見て、川畑は苦笑した。
「どうしました?」
「彼女を還すよ」
帽子の男は、ベッドに横たわるノリコを見て、ポンと手を打った。
「そうでした。忘れてました。ご連絡ありがとうございます。では、記憶の統合が完了したら、偽体は回収しますね」
帽子の男の能天気な軽い声が恨めしかったが、川畑は黙ってうなずいた。もう別れは十分に済ませたのだ。泣いてすがってもどうにもならない以上、未練を引きずっても、こいつの前で不様をさらすのは嫌だった。
「あ!そうそう。この前、川畑さん、偽体がショックを受けた時の記憶がどうなるか気にしてたでしょ。あの後、専門家に聞いてみたんですよ。そしたらね、本体が若かったり未熟だったりして精神が弱い間は、偽体が体験したショックな出来事は、認識できないように封印されるんですって。でも、マージで記憶自体は本体に反映されるから、本体が成長して精神が十分にショックに対応できるぐらい強くなったら、徐々に記憶は戻るそうです」
「は?」
「だから、そのうちノリコさんとも、今回のてんやわんやを笑って話せるかも知れませんよ。川畑さん、今回も結構頑張って彼女助けに行ったんでしょう?よかったですね」
川畑は、偽体のノリコの記憶を、本物のノリコが"思い出す"可能性に総毛立った。思い残すことのないように…と思ってやりきったあれやこれやが、走馬灯のようによぎる。
アレを!ノリコが!思い出す!?
「そ、それならそうと最初に教えて欲しかった」
切なく美しい思い出が、とんでもない黒歴史の時限爆弾に変わったショックで、川畑は突っ伏した。
「ますたー、おかえりー!」
「ただいま、キャップ」
タイムフライズ号に戻ってくると、キャップが計器番をしていた。
「ジャックは?」
「おへやだよ。よんでこようか?」
「いや、いいよ。寝てたら悪いし」
「へいき、へいき」
止める間もなく、飛んでいったキャップが消えた壁の一角に、間もなく四角い開口部が出現した。
「よう、帰ってきたのか」
「悪いな。くつろいでいるところを邪魔して」
「いいよ。……それで、嫁は?」
「送ってきた。そんな顔すんなよ。元々、体質が体質だから、長い旅行は無理なんだ。今回は思わぬ事故で随分無理させたから、しばらく実家で療養させるだけだ」
「そうか」
悼ましそうに顔を伏せるMMに、川畑は少し罪悪感を感じた。ドライなふりをしているが、これで結構親切な人なのだ。
「だいじょうぶだよ。ますたーのおせわは、ボクたちがするから」
「そうだよ。さみしくないよ」
カップとキャップはいつも通り川畑にまとわりついて、川畑が頭をつつくと、くすぐったそうに笑った。
「まぁ、そんなわけで、俺の旅はここまでだ。世話になったな。荷物はこの後、すぐに片付けるよ。何か費用で清算が残っているものがあったら言ってくれ」
「それなんだが……お前、これから何か予定はあるのか?」
MMはなんだかためらいがちにボソボソ言った。
「いや、その、なんだ。少し料金を貰いすぎてるし、もしよかったら、次の仕事が入るまで、もう少し観光に付き合ってやってもいいぞ……そこの妖精たちも一緒に」
MMはちらちらカップの方を見ながら、ついでに言っただけだと思われたさそうな口調で、本題を付け足した。
「やったー!いきたい、いきたい!いいよね、ますたー?」
カップは歓声をあげて、MMの頬に抱きついた。
「他に特に予定はないし、俺はあちこち見に行けるのは嬉しいが、いいのか?」
「気になるなら、コパイロットの仕事してくれればいいよ。俺の加速に耐えられるやつがいないから、一人でやってるが、本来は二人勤務がルールだからな」
「俺、免許も資格もないぞ」
「そんなもの辺境にいきゃ、簡単な筆記と体力テストで、すぐにもらえる。お前なら楽勝だろう」
川畑は、銀河辺境の埃っぽい宇宙港で、宇宙船の操縦士試験を受ける自分を想像してみた。
「それは……いいな」
MMは川畑の顔を見てニヤリと笑った。
「お前が好きそうな胡散臭い界隈も案内してやるよ。嫁と一緒じゃ行けなかっただろ。どっちかと言うと俺が知ってるのは、そんなのばっかりだからな」
「よし、のった」
川畑は手を差し出した。
「もうしばらく、よろしく頼む」
「OK。まずはお前のパイロットスーツ買いに行こうか」




