第八十四話:街道の町と、追手の影
王都を出発してから三日が過ぎた。
私たちが立ち寄ったのは地図に載っている中でも比較的大きな宿場町だった。活気はあるがどこか雑然とした庶民の匂いがする町。セレスティーナ様にとっては何もかもが初めて見る光景だったに違いない。
「リリア。あの赤い果実は何?」
「リンゴ飴でございますお嬢様。お砂糖を煮詰めた飴をリンゴに絡めた庶民のお菓子ですわ」
「まあ……。少し品がありませんわね」
そう言いながらもその月白色の瞳は好奇心にきらきらと輝いている。そのあまりに尊いギャップに私の心臓はまたしても悲鳴を上げた。
私たちは簡素だが清潔な宿屋に部屋を取ると夕食の買い出しがてら町の市場を散策することにした。
セレスティーナ様は手作りの木彫りの人形を興味深げに眺め、魚屋の店先から漂う生臭い匂いにはあからさまに眉をひそめた。その一つ一つの反応が私にとっては何よりも愛おしい。
だがこの束の間の平穏は唐突に破られた。
「そこのお前たち、少し待ちなさい」
声をかけてきたのは町の治安を預かる衛兵の男だった。だが彼の視線は私たちの身なりではなくフードから僅かに覗くセレスティーナ様の銀髪に一瞬だけ鋭く注がれていた。
「旅の者か。近頃王都から不審な輩が逃げ出したとの触れが出ている。身分と通行許可証を見せなさい」
まずい。私は咄嗟にセレスティーナ様を背中に庇った。
衛兵は私たちが差し出した偽造の身分証を疑念に満ちた目でじろじろと眺めるとその口の端を意地悪く吊り上げた。
「この許可証では身元が不確かだ。少し署まで来てもらおうか」
これはただの言い掛かりではない。彼は私たちをこの場に足止めし身元を確認するつもりなのだ。
「お待ちください衛兵様」
私は一歩前に出た。ここで私が折れるわけにはいかない。
「私たちは王国法に則り正式な手続きを経て旅をしております。現行法において身分証の不備のみを理由とした令状なき身柄の拘束は明確な違法行為です。衛兵様のその行為は職権乱用による不法逮捕罪に抵触する可能性がございますが」
前世で嫌というほど読み込んだ法律の知識。その応用が今私の唯一の武器だった。
私のよどみない反論に衛兵の顔が苛立ちに引きつった。
彼は法で私を言いくるめるのを諦めその本性を露わにした。
「法を語るか小娘」
その瞳に狂信的な光が宿る。
「もうすぐ本当の『律』がお前たちのような古き秩序の残滓を裁くことになる」
彼はそう吐き捨てると「問答無用、連れて行け!」と部下たちに命じた。
やはり彼は「律章復興派」の人間。既存の法など通用しない。
部下たちが乱暴に私の腕を掴もうとしたその瞬間。
「――おやめなさい」
凛とした氷のような声が響き渡った。
セレスティーナ様だった。彼女は私の前にそっと進み出るとその完璧な『氷の薔薇』の仮面をその身に纏っていた。
「随分と威勢の良いこと。ですがあなた方が崇めるその『古き律章』が今まさにあなた自身の命を見捨てようとしていることにお気づきでないとはお可哀想に」
「な、何を……」
「時の流れは絶対ではありません。ほんの少しの『揺らぎ』で人の命などいとも簡単に消え失せる。……あなたのその心臓も次の拍動を正しく刻めると本気で信じていらっしゃるの?」
それは脅しではなかった。
ただ絶対的な真理の宣告。彼女の言葉と同時に衛兵だけが感じ取れるほどの微細なエーテルの揺らぎが彼の心臓を鷲掴みにした。
衛兵はその場で崩れ落ちそうになるのを必死にこらえた。顔からサッと血の気が引きその瞳に初めて本物の恐怖の色が浮かぶ。
目の前の少女はただの貴族ではない。自分たちの理解の範疇を完全に超えた何かだ。
「ひっ……!」
彼は短い悲鳴を上げると蜘蛛の子を散らすようにその場から逃げ去っていった。
私たちは何とかその場を切り抜けた。
だが私の心には確信にも近い冷たい予感が渦巻いていた。
あの衛兵の制服の襟元。そこにごく微かに刺繍されていたあの蛇の紋章。
宿屋の部屋に戻り二人きりになった時。私はその恐ろしい推測をセレスティーナ様に告げた。
「お嬢様。あの衛兵は律章復興派の人間です。彼らは銀髪の女性というだけであなた様を特定し拘束しようとしたのです」
敵の包囲網は私たちが思っていたよりもずっと広く、そして深くこの国に張り巡らされている。
もはや王道を進むことすら危険かもしれない。
私たちは一枚の地図を広げた。
そのインクで描かれた線のどこにももはや安全な道など存在しないように思えた。
ついに、敵の、具体的な、追手の影が、現れました。二人の旅は、ここから、さらに、過酷なものとなっていきます。次回、追手を、振り切るため、二人は、吹雪の山道へと、足を踏み入れます。
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