第七十話:大潮期の予兆と、禁忌の講義
昨夜の悪夢のような幻視は私の魂に深く冷たい爪痕を残していった。
朝目覚めても脳の芯に残る鈍い頭痛は消えず、目の下にはくっきりとした隈が刻まれている。
「リリア。顔色が悪いわ。今日は休んでいなさい」
朝の支度をしながらセレスティーナ様が私の顔を覗き込み、心配そうに眉をひそめた。
(ああ、我が君にご心配をおかけするとは! この不忠者め!)
「滅相もございません! これは我が君にお仕えできる喜びに、魂が打ち震えているだけでございます!」
私は必死にいつもの笑顔を貼り付けた。だがその声が自分でも情けないほどか細く震えているのが分かった。
その日の最初の授業はアルベール・クロイツェル教授の『古代魔術論』だった。
重い足取りで大講義室に入ると教授はいつものように眠たげな目で教壇に立っていた。だがその視線が私の顔の上でほんの一瞬剃刀のように鋭く光ったのを私は見逃さなかった。
教授はゆっくりと口を開いた。
「――さて、諸君。今日は君たちのその、おめでたい頭に少しばかりの現実を教えてやろう」
彼は壁にかけられた複雑な星図……約束の天文暦を指し示した。
「星辰の運行がこの世界のエーテルの潮流に多大な影響を及ぼすことは諸君らも知っていよう。そして約束の天文暦によれば、数十年周期で訪れる最も危険な時期……「大潮期」がもう間もなくこの王国に到来する」
講義室がわずかにざわめく。
「大潮期には世界のエーテルが乱れ、君たちのようなギフト保持者の力は極めて不安定になる。歴史を紐解けば多くの高位魔術師がこの時期にその力に呑まれ暴走している」
そして教授は言葉を切るとその視線をまっすぐに私とセレスティーナ様に向けた。
「最も有名な例が数百年前のあの大災害だ。時の理そのものを書き換えようとした愚かな魔術師たちがいた。禁忌の「律章術」の探求者たちだ。彼らは大潮期にその力を制御できず自滅した。歴史に残る大馬鹿者どもだ」
私の心臓がドクンと大きく跳ねた。
律章術。時の残響。そして大潮期。
バラバラだったピースが一つの恐ろしい絵を形作り始めていた。
講義の終わり教授は教壇の隅に置かれていたガラスケースを指さした。中にはエーテルに敏感な小さなトカゲのような生き物が静かに眠っている。
「言葉だけでは分からんだろうからな。見せてやろう。世界のほんの少しの『揺らぎ』が何をもたらすかを」
教授が指を鳴らす。するとガラスケースの中の空間が僅かに陽炎のように揺らいだ。
次の瞬間眠っていたはずの小動物は甲高い悲鳴を上げ、ガラスケースの内側を狂ったように掻きむしり始めたのだ。
悲鳴を上げる女生徒たち。息を呑む男子生徒たち。
その地獄のような光景を前に私はただ青ざめていた。
あれがもうすぐこの世界で起こる。そして敵はその混沌を利用してセレスティーナ様の命を奪うつもりなのだ。
授業が終わり呆然と席を立つ。
その時背後から低い声がかかった。
「ヴァイスハルト家のメイド」
振り返るとそこにはクロイツェル教授が立っていた。
「過去は死んではいない。その残響は時に現在をかき消すほどの騒音となる。……その大波に呑まれる前に泳ぎ方を覚えることだな」
それは全てを見透かしたような警告だった。
私は、彼の眠たげな瞳の奥に、底知れない深い闇の色を見た。
物語の核心に触れる、重要単語が、次々と提示されました。リリアたちは、この、迫りくる危機に、どう立ち向かうのか。次回、共犯者たちの、秘密会議が、始まります。
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