第六十八話:見えざる手と、小さな事故
あの禍々しい蛇の紋章を発見した翌日から、私の日常は見えない敵意に満ちた戦場へと変わった。
朝、セレスティーナ様が口にされる朝食のパンの一片、紅茶の一滴に至るまで、私はこれまでにない神経を張り巡らせてチェックする。彼女が歩む廊下の床に異常はないか。開ける扉の取っ手に何か仕掛けられてはいないか。
「リリア。あなた少し過敏になりすぎよ」
私の鬼気迫るほどの警戒ぶりにセレスティーナ様は呆れたようにそう仰った。だがその声には私の身を案じるような優しい響きが混じっている。
(過敏ですって? とんでもない! 我が君の御身に万が一のことでもあれば、このリリア、末代まで祟る地縛霊と化してでも犯人を呪い殺しますわ!)
私の忠誠心という名の狂気を、この気高き女王様はまだご存知ない。
最初の「事故」はその日の午後に起きた。
私たちはセレスティーナ様の研究に必要な極めて希少な古文書を閲覧するため、天媒院の第二図書館を訪れていた。
司書に閲覧許可証を提示し、案内されたのは厳重に管理された特別書庫の一角。だが目的の文献が収められているはずの書架は空だった。
「おかしいですね……。確かに昨日の時点ではここに……。申し訳ありません、お嬢様! どうやら他の書物と紛れてしまったようで……」
司書が真っ青になって平謝りする。
セレスティーナ様は苛立ちを隠せない様子で深いため息をついた。
その時、私は空になった書棚のその棚板の隅に見つけてしまった。
インクの染みか、あるいはただの木目の悪戯か。だが私の目にははっきりと見えた。昨日見たものと寸分違わぬあの二つ頭の蛇の紋章がそこに微かに刻まれているのを。
そして二度目の「事故」はその日の放課後、錬金術の実習室で起こった。
その日の課題はエーテルの流れを可視化するという極めて繊細な水晶器具を使う高度な実験だった。
セレスティーナ様が自らに割り当てられたその器具にそっとマナを流し込もうとした、まさにその瞬間。
ピシという、ガラスが軋むような小さな音が響いた。
次の瞬間、彼女の目の前にあった水晶器具はまるで内側から何かの力で弾かれたかのように粉々に砕け散ったのだ。
「ヴァイスハルト嬢! 君ほどの術者がマナの初期制御を誤るとは!」
教官の厳しい叱責の声が飛ぶ。セレスティーナ様は唇を噛みしめただ黙って頭を下げていた。
誰もが彼女の「失敗」だと信じて疑わない。
だが私は見ていた。砕け散る直前、器具の台座に一瞬だけ紫色の禍々しい呪詛のルーンが浮かび上がったのを。
その夜。私は一人あの実習室に忍び込んでいた。
月明かりの下、砕け散った水晶の破片を一つ拾い上げる。
そして前世の知識を頼りに自作した簡易的な鑑定用のルーペで、その断面を食い入るように見つめた。
あった。
肉眼では到底判別できないほどの微細な傷。それは環流マナ術の影奏‐ヴァイオレット系統を応用した破壊工作の痕跡。そしてその傷の中心にあの蛇の紋章が悪魔の嘲笑のように刻まれていた。
やはりこれは事故などではない。
セレスティーナ様の研究を妨害しその評価を貶めるための巧妙に仕組まれた連続攻撃。
私はその動かぬ証拠を強く握りしめた。
見えざる敵は宣戦布告のつもりだろうが、上等だ。
「あなたのお遊戯はここまでよ」
メイドの仮面の下で、狩人の瞳が静かに、しかし確かに光った。
地味で、執拗な嫌がらせが、じわじわと二人を追い詰めます。しかし、それは、リリアの探偵魂に、火をつけるだけでした。次回、メイドの逆襲が、始まります。
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