第六十七話:偽りの平穏と、蛇の紋章
論文会での劇的な勝利から数週間が過ぎた。
天媒院の空気はセレスティーナ様を包むように、その色合いを確かに変えていた。かつて「不吉な銀髪」に向けられた侮蔑や好奇の視線は、今や畏敬と、そして僅かな恐怖へと変わっていた。ラザルス・フォン・ライネスティアという、この学園の知性の頂点に君臨していたはずの男を公衆の面前で完璧に打ち破ったのだ。もはや彼女をただの令嬢として侮る者はいなかった。
その平穏はまるで薄氷の上で踊っているかのように危うく、そして甘美だった。
私たちは勝利の対価として得た『禁書庫』へのアクセス権を使い、父君が遺した道しるべを頼りに本格的な調査を開始していた。
「……リリア、この部分を見て」
禁書庫の奥深く、埃と古いインクの匂いが満ちる閲覧室で、セレスティーナ様が低い声で私を呼んだ。彼女の指先が示すのは父君の研究記録の一節。そこには彼女と同じ銀髪を持って生まれた者たちの悲劇的な末路が、淡々とした筆致で記されていた。
「ええ。ですがあなた様はもう一人ではございません」
私は彼女の肩にそっと温かい薬草茶を差し出しながら、そう囁いた。私たちは「共犯者」なのだ。その言葉に彼女は少しだけ、その美しい月白色の瞳を和らげた。
(ああ、我が君! その儚げな横顔! 守りたいこの笑顔! このリリア、我が君のためならばこの禁書庫の全ての文字を暗記し、人間データベースとなる所存ですわ!)
私の内心の絶叫など知る由もなく、彼女は再び研究に没頭していく。
だがその偽りの平穏の裏で、見えざる蛇は静かに鎌首をもたげていた。
商人見習いのフィンからの定期報告は決して楽観できるものではなかった。「二つ頭の蛇」の存在は確かだが、その本体は巧妙に隠蔽され核心に近づけないという。ラザルス様も論文会での敗北以来、表立った動きを見せてはいない。だがそれが逆に不気味だった。
そして私自身も、ここ数日奇妙な感覚に囚われていた。
図書館の書架の影、寮へと続く渡り廊下の曲がり角。ふとした瞬間に誰かにじっと見られているような肌寒い視線を感じるのだ。
振り返ってもそこには誰もいない。風が白亜の塔の間を吹き抜けていくだけ。
(気のせい……? いいえ、これは……)
それは獲物を見つけた蛇の温度のない視線によく似ていた。
その日の午後、私たちは図書館からの帰り道にいた。セレスティーナ様が中庭に面した古い回廊の柱にふともたれかかる。
「少し休みましょうか。禁書庫の空気はどうにも肌に合いませんわ」
「はい、お嬢様」
彼女が柱から身を離し、再び歩き始めたその時だった。
私の視線が彼女がもたれていたその柱の表面に吸い寄せられた。
誰かが硬いもので引っ掻いたような真新しい傷。
その形は悪戯書きにしては、あまりに禍々しい。二つの頭を持つ一匹の蛇。
心臓が氷水に浸されたかのように冷たく、そして痛く脈打った。
私がその蛇の紋章を睨みつけたまさにその瞬間。
視界のほんの片隅で。黒い影がゆらりと揺らめいた気がした。
ハッとして勢いよく振り返る。
だがそこには誰もいない。ただ夕暮れ前の長い影が回廊に伸びているだけ。
幻覚などではない。
肌が粟立つような確信があった。
この甘美な平穏は終わった。
見えざる敵はすぐそこにいる。そして静かに私たちのことを見ているのだ。
私は何も気づかずに前を歩く我が君の気高い後ろ姿を見つめながら、そっとドレスのポケットに忍ばせた護身用のナイフの柄を強く握りしめた。
第三章、開幕です。穏やかな日常の裏で、新たなサスペンスが始まります。感想・評価・ブックマークで応援いただけると、リリアの警護レベルが上がります。
ご覧いただきありがとうございました。また、世界観を共有する作品もあるので、そちらもご覧いただけるとお楽しみいただけるかと存じます。HTMLリンクも貼ってあります。
次回は基本的に20時過ぎ、または不定期で公開予定です。
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