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第六十六話:硝子の心臓【side:セレスティーナ】

 禁書庫の静寂は肺腑に重く、インクと乾いた羊皮紙の匂いが満ちていた。何百年もの知識が埃となって降り積もるこの場所では、音すらも重さを持っているように感じられる。

 あの日、私の世界は音を立てて砕け散った。父が遺した研究記録。そこに刻まれていたのは『天鎖の環』という、おぞましい儀式の真実だった 。


 絶望の瓦礫の中で、たった一つだけ温かいものがあった。

 私の手を握りしめる、リリアのその小さな手。

 理屈を超えた絶対的な肯定の言葉が、私の凍てついた心を無理やりに溶かしていく。

 私は一度、死に、この愚かで献身的な侍女の手によって、もう一度生かされたのだと思った。


 それからの数日間、私は気丈に振る舞っていた。強く気高いヴァイスハルト家の次期当主として。リリアが憧れる、完璧な女王として。

 だがそれは全て、嘘だった。

 私の心は薄い薄い硝子でできていた。いつ砕け散ってもおかしくない、脆い硝子の心臓。


 父の記録を読み解くたびに、その硝子に亀裂が入る。

 過去、私と同じ銀の髪を持って生まれた者たちの、悲劇的な末路。ふと幼い頃の記憶が蘇る。書斎で、父が私に文字を教えてくれた日のこと。私の小さな手を、父の大きくて温かい手が包み込み、一緒にペンを走らせた、あの温もり。

(この温かい手で。父上は、このおぞましい記録も綴っていたというの…? 私を愛おしむ、その同じ手で?)

 父の愛は、甘い毒だった。私のこの存在そのものを肯定してくれる唯一の温もり。そして同時に、私の公爵としての誇りを根底から蝕んでいく、致死の毒。


 思考が麻痺する。呼吸が浅くなる。

 ああ、ダメだ。また、あの暗い奈落の底へと引きずり込まれる。

 その瞬間。

「お嬢様、あまりご無理はなさらないでくださいね。私はいつでもここにおりますから」

 リリアのどこまでも真っ直ぐな声が、私の意識を引き戻した。

 ことり、と私の机の隅に、温かいティーカップが置かれる。

 私がそのカップに手を伸ばした時、彼女の指先が私の冷たい指にそっと触れた。

 驚くほど温かい。

 間近で見る彼女の、その真剣で心配そうな顔。私の心の闇など少しも知らない、そのあまりに純粋な眼差し。


「夜中でも明け方でも、…いつでも呼んでくださいませ」


(怖い。怖い。これが私。これが私の、辿るべき末路)

 私の内心の悲鳴を、あなたは知らない。

(リリア。あなたが側にいる。あなたのこの何気ない日常の温もりだけが、私の世界の全てだ)

 私はこの何も知らない少女の優しさに寄生している。

 彼女のその、太陽のような光を利用して、かろうじて立っているに過ぎない。

 ああ、リリア。あなたは知らないでしょうね。

 あなたのその愚かなほどの献身が、私にとってどれほどの救いであり、そして同時に、どれほどの罪悪感をもたらしているのかを。

 その光が眩しい。

 そしてその光を決して手放したくないと願ってしまう、自分が、どうしようもなく醜い。


 そんな私のドロドロとした感情の渦など知る由もなく。

 彼女は、無邪気な笑顔で私に駆け寄ってきた。

「お嬢様! ご覧ください! この年表のこの部分! 平和な時代のはずなのに、不作の記録もないのに、なぜここでだけ儀式が!」


 絶望の淵に沈みかける、そのまさに寸前に垂らされる、一本の蜘蛛の糸。

 その、手を伸ばさざる得ない、甘い救済に、私の硝子の心臓は、喜びと、そして新たな恐怖に締め付けられた。


「…ですから、お嬢様。何もご心配なさらないで」

 彼女は私の心の揺らぎに気づくはずもなく、ただ純粋な瞳で続ける。

「たとえどんな真実が見つかろうとも、私はずっと、お嬢様の味方です」


 その言葉が、引き金だった。

 ドクン、と制御できない脈動が耳の奥で響いた。息を呑む。

 机の下で、私は自分のドレスの裾を、爪が食い込むほど、強く、強く握りしめていた。

(この子を、失う? この光が、いなくなる?)

 冗談ではない。

(それくらいなら。私は喜んで、全てを、裏切る)


 私はそのおぞましい独占欲を、完璧な女王の仮面の下に隠して。

 彼女に気づかれないように、そっと、ただそっと、微笑み返した。

 私のたった一人の、愚かで、そして何よりも愛おしい、共犯者に。


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