第六十四話:この世界に、あなたがいて
禁書庫の冷たい静寂の中、セレスティーナ様のか細い声が響いた。
「ねえ、リリア……私は生まれてきてはいけなかったのかしら……?」
その言葉は鋭い氷の刃となって、私の心臓を真っ直ぐに貫いた。
世界が止まる。
どんな慰めの言葉も励ましの言葉も、この魂の問いかけの前では、あまりに陳腐で無力に思えた。
私がここでかけるべき言葉はただ一つ。
私がなぜここにいるのか。その全ての理由。
私は彼女の手を握るその手にさらに力を込めた。
そしてその場に静かに跪く。
涙で濡れた彼女の美しい月白色の瞳を下から真っ直ぐに見上げて。
「――たとえ」
私は一言一言魂を込めて紡いだ。
「たとえ世界中の全ての人間が、あなた様のそのお誕生を間違いだと断罪したといたしましても」
私の声は震えていなかった。そこにあるのは絶対的な揺るぎない事実。
「このリリア・アシュワースだけは生涯を、いえこの魂の全てをかけて、あなた様がこの世界にお生まれになったことを祝福し続けます」
(当たり前でしょう! 何をおっしゃっているのですか、我が君!)
私の内心は絶叫していた。
(あなた様がいらっしゃらない世界など! 色も味も香りもなく、ただ息をする価値すらない灰色の虚無に過ぎません! 生まれてきてくださってありがとうございます! このリリアと出会ってくださって心から感謝を!)
私のそのあまりに愚直で絶対的な肯定の言葉。
それが彼女の最後の心の堰を決壊させた。
「……リリア……っ」
セレスティーナ様は子供のように声を上げて泣きじゃくった。父の罪も公爵としての責務も全てを忘れて。ただ一人の傷ついた少女として私の胸にその顔をうずめた。
私はただ黙ってその華奢な体を強く、強く抱きしめた。
大丈夫。大丈夫です、我が君。あなた様は決して一人ではないのですから。
どれほどの時間が流れただろう。
ようやく嗚咽が穏やかな寝息へと変わる頃。
セレスティーナ様は私の胸に顔をうずめたまま、小さな、しかし確かな光を宿した瞳で私を見上げた。
「……ありがとう、リリア」
その声はもう迷子の少女のものではなかった。
「……ええ、そうね。私が私自身のこの存在を肯定してみせるわ。父の、そして……あなたの想いに応えるために」
彼女はゆっくりと体を起こす。
そしてもう一度あの黒い革張りの本を手に取った。
その横顔にはもう迷いの色はなかった。
私はそっと立ち上がり、彼女のために新しいロウソクに火を灯す。
「ではお嬢様。その父君が遺された研究記録をもう一度読み解きましょう。あなた様があなた様自身の翼で羽ばたくための方法が、きっとそこに記されているはずです」
「ええ」
セレスティーナ様は力強く頷いた。
私たちは再びその禁断の知識の海へと身を投じる。
だが今度はもう恐怖はない。
そこにあるのは運命に抗うという共通の目的。そして互いの背中を預けられるという絶対的な信頼だけだった。
二人の本当の戦いは今、この禁書庫の片隅から静かに、そして確かに始まっていた。
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