第五十六話:二つ頭の蛇
論文の最終稿がようやく形になったのは、論文会の三日前の夜だった。
私たちの秘密基地である温室には、インクの香りと達成感に満ちた穏やかな空気が流れていた。机の上には数十枚に及ぶ羊皮紙の束。その厚さは数センチにも満たないが、そこに記された歴史の重みは、まるで数トンにも感じられた。
「……終わったのね」
セレスティーナ様が完成した論文の最後のページを愛おしそうに指でなぞりながら、ぽつりと呟いた。その横顔にはこれまでの苦労と、そして自らの血筋に誇りを取り戻した者の静かな自信が浮かんでいる。
「私のこの銀色の髪が……かつては国を守るための祝福の翼だったなんて。あなたたちがいなければ、私は永遠に知ることもなかったわ」
彼女は私たちに向き直ると、心の底から優しく微笑んだ。
「リリア、シルヴィア。本当にありがとう」
そのあまりに尊い微笑みに、私の胸は熱くなる。
(ああ、我が君! その輝きは数キロ先まで届き、闇を照らす希望の光そのもの!)
「お嬢様がご自身の道を、その手で切り開かれたのです。私たちはそのお手伝いをほんの少しさせていただいただけですわ」
込み上げるポエムを必死に飲み込み、私は完璧な侍女の笑みでそう返した。セレスティーナ様が「またそのおかしな口癖が……」と楽しそうに呆れる。シルヴィア様もくすくすと幸せそうに笑っていた。
この穏やかな時間がずっと続けばいい。
そんな甘い感傷を打ち破るように、温室の扉が静かに軋んだ音を立てた。
そこに立っていたのは予期せぬ人物だった。
「……少し夜風にあたりにな。邪魔だったかな」
眠たげな瞳の、アルベール・クロイツェル教授だった。
彼は私たちの許可を得るでもなく、ふらりと中へ入ってくると机の上に広げられた論文の草稿を無遠慮に一瞥した。
「ほう……『銀の翼』か。おとぎ話にしては、よく書けている」
その言葉に私たちは息を呑む。彼がどこまで知っているのか全く読めない。
教授はそんな私たちの緊張を意に介するでもなく、私にだけ聞こえるような低い声で続けた。
「お嬢ちゃん」
その剃刀のように鋭い視線が私を射抜く。
「蛇の首を刎ねたつもりでも、尻尾がまだ動いていることもある。……特にその蛇が二つ頭だった場合はな」
二つ頭の蛇。その不吉な比喩に、私の背筋を冷たい汗が伝う。
教授はまるで私の思考を楽しむかのように、机の隅に置いてあった私が調合用の薬草を計量していた小さな天秤を指さした。
「その薬草……数グラムの誤差で毒にも薬にもなる代物だ。使い方を間違えるなよ」
それは錬金術の専門家としての純粋な警告だったのかもしれない。
あるいはもっと深い何かを示唆する警告だったのか。
彼はそれだけ言うと欠伸を一つして「さてそろそろ本当の夜風にあたるとするか」と、何事もなかったかのように温室を出ていった。
残されたのは圧倒的な謎。
「二つ頭の蛇」とは一体何を意味するのか。ラザルス様の背後にまだ別の黒幕がいるというのか。それともあの予測不能なイザベラ様のことか。あるいは全く別の……。
論文会での勝利はもう目前だ。
だが本当の戦いはまだ終わっていない。
むしろこれから始まるのかもしれない。
私は教授が消えていった暗い温室の出口をただ呆然と見つめていた。
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