第五十四話:赤き戦姫の、再起動
イザベラ・フォン・ツェルバルク様が医務室から自室に戻ったその翌朝のことだった。
まだ夜の名残が漂う早朝の空気に、不釣り合いな鬨の声が響き渡ったのは。
「うおおおおおおお! ツェルバルク家家訓第三十七条! 防御とはより高威力の一撃で相手を沈黙させることである! すなわち防御力の基礎は攻撃力! わたくしの筋肉が足りていなかったということですわね!」
声の主はもちろんイザベラ様だった。
天媒院の美しい中庭。その中央で彼女は、これまで着ていた華美なドレスではなく動きやすい乗馬服のような姿で、一心不乱に素振りを繰り返していた。手にはどこから持ち出したのか訓練用の重たい木剣が握られている。
その常軌を逸した光景に、早起きの生徒たちは遠巻きに恐怖と困惑が入り混じった視線を向けていた。
だがその混沌の中に、ただ一人歓喜に打ち震えている者がいた。
イザベラ様専属の侍女、ブリギッテだ。並の騎士より屈強な体躯を持つ彼女は、主の姿に感涙にむせびながら庭の装飾に使われていた巨大な岩石を軽々と持ち上げていた。
「ああ、お嬢様! ようやく本来のお姿に! このブリギッテ、どこまでもお供いたします!」
「ブリギッテ! あなたも鍛錬が足りていませんわよ! その岩で大胸筋をいじめなさい!」
「ははっ! 承知いたしました!」
まるで主従二人だけの狂乱の演舞。
私とセレスティーナ様、そしてシルヴィア様は、温室の窓からその信じがたい光景をただ呆然と眺めていた。
「まあ……」シルヴィア様がそっと口元を覆う。「記憶を失った衝撃で心まで少しおかしくなってしまわれたのかしら……。お可哀想に」
「……あれがツェルバルク家の本性だとしたら、理解の範疇を完全に超えているわね」
セレスティーナ様が心底理解不能といった顔で眉をひそめる。
私は二人とは違う視点でこの異常事態を分析していた。
「いいえ、これはおそらく……」私はもっともらしい口調で解説を始める。「強い精神的ショックを受けたことによる一種の退行現象、あるいは代償行動です。彼女は魔法の暴走によって自らの『力』への信頼を根底から打ち砕かれた。その失われた自信を取り戻すため、最も原始的で確実な『身体の鍛錬』という形で、無意識に自己肯定感を取り戻そうとしているのかもしれません」
我ながら完璧な分析だ。そう私が内心で頷いたその時だった。
「リリアさん、博識ですのね……」
シルヴィア様が純粋な尊敬の眼差しを私に向けてくる。セレスティーナ様も「なるほど、そういう見方もできるのね」と納得したように頷いている。
違うのです、そうじゃないのですと、喉まで出かかったが、今さら訂正するわけにもいかない。
私たちのそんな盛大な勘違いをよそに、イザベラ様の奇行は日に日にエスカレートしていった。
廊下を兎跳びで移動し、授業中に机の下で見えない椅子に座る訓練に励む。その奇行はすぐにライネスティア家のラザルス様の耳にも届いていた。
彼は図書館の窓から中庭で木剣を振り回すイザベラ様の姿を冷ややかに一瞥した。そしてまるで道端の石ころでも見るかのように興味を失った顔で、手元の本に視線を戻した。
ラザルス様はイザベラ様をもう「使えない駒」だと判断したのだ。
それは私たちの計画にとって好都合ではあった。だが同時に、彼がこの予測不能な事態をどう次の一手に利用してくるのか。新たな不気味さが私たちの心に影を落とす。
数日後。ツェルバルク家本家から一通の手紙がイザベラ様の元に届けられた。
差出人は彼女の兄、ヴォルフ様からだった。
「イザベラ、お前は少し自重というものを覚えろ! 学園を破壊でもする気か!」という胃の痛みが伝わってくるような切実な内容。
だがイザベラ様はその手紙をにこやかに受け取ると、
「まあ、兄上も心配性ですこと。これはわたくしをもっとやれと激励してくださっているのですわね!」
とポジティブに解釈しビリビリに破り捨ててしまった。
盤上に放たれた壊れた人形。
いや、あれはもはや人形などではない。
誰にも制御できない、ただ己の信じる「力」だけを追い求める赤い台風の目だ。
私たちは論文会への準備を進めながらも、学園に生まれた新たな混沌から目が離せなくなっていた。
この嵐が私たちの追い風となるのか。それとも全てを吹き飛ばしてしまうのか。
それはまだ誰にも分からなかった。
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