第三十八話:かくして、私は。【side:セレスティーナ】
静かな、寝室だった。
侍女頭や、騎士たちの慌ただしい声も、今はもう、遠い。
私の世界には、ただ、薬草の匂いと、ベッドで眠り続ける、一人のメイドの、か細い寝息だけが、響いていた。
リリア。
それが、彼女の名前。
私の、専属メイド。
私の、命の恩人。
そして、私の……。
私は、ベッドの脇の椅子に座り、ただ、静かに、彼女の手を握っていた。
メイドの仕事で、少しだけ硬くなった、指先の皮膚。それでも、私に比べれば、あまりに、温かい。その温もりが、まるで、私の凍てついた魂を、じわじわと溶かしていくようだった。
眠っているというのに、彼女の眉間には、うっすらと、心配性のシワが刻まれている。長い睫毛が、頬に、淡い影を落としていた。
(なぜ、庇ったの。あなたのような、ただの人間が)
私の脳裏に、全ての始まり、あの書斎での、最初の日が、鮮やかに蘇る。
あの時、あなたは、私の前に、毅然として立っていた。
誰もが恐れ、あるいは、憐れむ、この「不吉な銀髪」を、あなたは、ただの「色」としてしか見ていなかった。私という人間を、ただの「セレスティーナ・フォン・ヴァイスハルト」という、問題を抱えた、一人の人間として、その真っ直ぐな瞳で、見ていた。
そして、あなたは、言ったのだ。私が抱える問題の、その核心を、誰よりも正確に、誰よりも真剣に、語ってくれた。
あの瞬間。
私の、灰色だった世界に、初めて、音が生まれた。
生まれて初めて、知ってしまった。
誰かに、心を、根こそぎ奪われるという、どうしようもない、甘い、衝動を。
そう。私は、あの時から、ずっと。
あなたの、その、愚かなほどに真っ直ぐな瞳に、どうしようもなく、惹かれていたのだ。
だから、私は、あなたの全ての奇行を、許した。
観閲式での、あの、狂気の絶叫も。
屋敷の伝統を無視した、専属給仕係という、無謀な願いも。
本当は、あなたの言うこと全てが、ただ、心地よかった。あなたを、この手元に、繋ぎとめておくための、理由が、欲しかった。
ただ、それだけだったのかもしれない。
熱線に焼かれた、あなたの、あの小さな背中。
思い出すだけで、私の胸が、張り裂けそうに、痛い。
私が、生涯をかけて、抑え込んできた、この魔力よりも、ずっと、ずっと、あなたのその痛みが、私を、狂わせる。
私は、握りしめたあなたの手に、そっと、自分の額を押し付けた。
これまで、私は、民のため、領地のため、そして、この世界を、私自身から守るために、戦ってきた。
為政者としての、義務。呪われた血の、宿命。
だが、今は、違う。
私は、初めて、守りたいものができた。
義務でも、宿命でもない。
ただ、この、温かい手を、二度と、失いたくない。
この、愚かで、献身的で、そして、誰よりも愛おしい、たった一人のあなたのために、私は、戦いたい。
私は、ゆっくりと顔を上げた。
眠るあなたの、穏やかな寝顔を見つめる。
私の、月白色の瞳に、もう、迷いの色はなかった。
これまで、ただ、耐え忍ぶだけだった、私の人生。
その、次の章の、最初のページを、私の意志で、めくる時が来たのだ。
かくして、私は。




