第二十九話:暖炉の灰と、見えない毒
偽りの平穏は、ある寒い夜に、突然、終わりを告げた。
その日、王都では、秋の収穫を祝う、ささやかな夜会が開かれていた。セレスティーナ様も、公爵家の代理として、それに参加している。
もちろん、夜会で出される飲食物には、一切、口をつけさせていない。私が屋敷から持参した、安全な水だけを、彼女は静かに飲んでいた。
夜会が終わり、屋敷へと戻る。
冷えた体を温めるため、セレスティーナ様は、自室の暖炉の前で、静かに本を読み始めた。
私も、その側に控える。いつもの、穏やかな夜の光景。
そう、思っていた。
事件が起きたのは、その直後だった。
セレスティーナ様が、ふと、こめかみを押さえた。
「……少し、目眩がするわ」
「お嬢様!?」
次の瞬間、彼女の体は、ぐらり、と大きく傾き、椅子から崩れ落ちてしまったのだ。
その顔色は、見る見るうちに青ざめていき、額には、脂汗がびっしりと浮かんでいる。
私は、パニックに陥った。
なぜ? 飲食物は、完璧なはずなのに。夜会でも、何も口にしていない。
衰弱し、荒い息を繰り返すセレスティーナ様を、必死にベッドへと運ぶ。侍女頭や、他のメイドたちが、騒ぎを聞きつけて駆けつけてくる。
「医者を! 早く!」
侍女頭の叫び声が、遠くに聞こえた。
私は、ただ、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
私の完璧な城は、いとも簡単に、破られてしまったのだ。
絶望と、自責の念。私が、もっと、しっかりしていれば。
(……いや)
その時、私の脳裏に、一つの光景が、雷のように閃いた。
倒れる直前の、セレスティーナ様の姿。彼女は、暖炉の前で、本を読んでいた。
(暖炉…?)
私は、医者やメイドたちが慌ただしく動き回る中、一人、暖炉へと近づいた。
炎は、もう、ほとんど消えかかっている。
私は、火かき棒で、その灰を、そっと、かき混ぜた。
そして、ふと、鼻をついた、微かな、しかし、決して忘れることのない、あの「触媒」の香り。
私は、戦慄した。
犯人は、セレスティーナ様が、寒い夜には、必ず、暖炉の近くで過ごすことを見越していたのだ。
そして、その薪そのものに、触媒となる香辛料を、染み込ませていた。
燃やされた香辛料は、無色無臭の毒となり、気化して、部屋の空気そのものを、汚染したのだ。
セレスティーナ様は、それを、知らず知らずのうちに、呼吸と共に、吸い込んでしまっていた。
なんという、悪魔的な手口。
もう、ダメだ。
私がいくら飲食物を管理しても、空気を、贈り物を、全てを監視することなんてできない。
待っているだけでは、我が君は、いつか必ず、殺される。
私は、眠るセレスティーナ様の、苦しげな寝顔を見つめながら、固く、固く、拳を握りしめた。
その瞳から、これまでの感傷は、消え失せていた。
(私が、狩人になるんだ)
この屋敷に潜む、見えない牙を、この手で、引きずり出す。
そのためなら、どんな非情な手にだって、染めてみせる。
私の、本当の戦いが、今、始まろうとしていた。




