第二十三話 : 鳴かない鳥と、最初の対価
ぎぃ、と軋んだ音を立てて、酒場の扉が開く。
一瞬にして、酒と汗と、そして微かな血の匂いが混じったような、濃密な空気が、私の肺を満たした。
昼間だというのに、薄暗い店内。屈強な傭兵、抜け目のない顔つきの商人、フードを目深にかぶった怪しい人物。そんな、およそ堅気とは思えない男たちが、こちらを一斉に見た。
場違いな、質素だが清潔な身なりの街娘の登場に、騒がしかった酒場が、水を打ったように静まり返る。全ての視線が、値踏みするように、私に突き刺さった。
(怖い…!)
恐怖で、足が床に縫い付けられそうになる。今すぐ踵を返して、我が君のいる、あの陽光あふれるカフェに戻ってしまいたい。
だが、私の脳裏を、あの虚ろな瞳のビジョンがよぎった。
(…我が君のためなら!)
私は、自分を奮い立たせ、震える足で、まっすぐにカウンターへと向かった。
カウンターの中には、顔に大きな傷跡のある、強面のバーテンダーが、無言でグラスを拭いている。彼が、この酒場の元締めであり、情報屋への取次役だと、私はあたりをつけていた。
「……お尋ねしたいことが、あります」
「嬢ちゃんが来るような店じゃねえ。さっさと帰りな」
バーテンダーは、私に一瞥もくれずに、そう言い放った。
私は、怯まなかった。懐から、けして少なくない額の銀貨を数枚取り出し、カウンターの上に置く。
「情報が欲しいんです。『鳴かずのカッコウ』は、金さえ払えば、どんな鳥でも鳴かせることができると、聞きました」
バーテンダーは、ようやく私に視線を向けると、カウンターの上の銀貨を鼻で笑った。
「生憎だがな、嬢ちゃん。金だけじゃ、口の重い鳥は鳴かねえよ。それ相応の、『対価』ってもんが必要なのさ」
対価。金だけでは、ダメ。
必死に、頭を回転させる。私に払える対価とは、一体何だ?
そして、私は、賭けに出ることにした。あの書斎で、セレスティーナ様の心を、ほんの少しだけ動かした、私だけの武器。
「……では、取引を。私は、あなた方に『価値のある情報』を提供します。その見返りに、私の欲しい情報をください」
「ほう? 嬢ちゃんが、俺たちに、だと?」
バーテンダーの言葉に、近くの席に座っていた商人風の男たちが、面白そうにこちらを見る。
私は、息を吸い込んだ。
「先日、王都で施行された新しい商業税法。あれには、致命的な欠陥があります。条文の解釈次第では、特定の品目の取引において、合法的に、納税額を現在の三分の一以下に抑えることが可能です。その方法は――」
私は、前世の法律知識の片鱗を総動員し、早口で、しかし、よどみなく説明した。
酒場が、ざわつき始める。「おい、嬢ちゃん、今なんて言った?」「そんな抜け道があったのか!」
私の話は、ここにいる商人たちにとって、金貨数十枚よりも、ずっと価値のある情報だったのだ。
バーテンダーの表情が、初めて変わった。
「……面白い。嬢ちゃん、奥へ来な」
私は、店の奥にある、小さな個室に通された。
そこには、痩せた、狐のような目つきの男が、一人、待っていた。彼が、本物の情報屋なのだろう。
「お嬢さんの話は、聞かせてもらったよ。なかなか面白い頭の構造をしているようだね。で、何が知りたいんだい?」
「ウィルクス商会について。数年前に、彼らを経営難から救った、謎の資金の出所が知りたいんです」
情報屋は、その名前を聞いて、ニヤリと、意地の悪い笑みを浮かべた。
「そいつは、ちと厄介な話だね。全部を話すには、あんたがさっきくれた情報だけじゃ、割に合わない」
まずい。時間がないのに。セレスティーナ様を、待たせている。
私の焦りを見透かすように、情報屋は、言葉を続けた。
「だが、まあ、あんたの度胸と、面白い話に免じて、ヒントだけはやろう」
私は、固唾を飲んだ。
「その金の流れを追いたきゃあ、『ヴァイスハルト公爵家』の名前を調べな」
「えっ…?」
あまりに予想外の言葉に、私は、素っ頓狂な声を上げた。
「お、お嬢様の家を、ですか?」
「いや、もっと正確に言やあ」
情報屋は、人差し指を立てて、楽しそうに言った。
「『先代』のヴァイスハルト公爵…つまり、今のお嬢様の、お父上の代に、一体、何があったかを探ることだね。金の出所も、動機の全部も、たぶん、ぜーんぶ、そこにある」
衝撃的な言葉だった。
敵は、今のセレスティーナ様だけじゃない。もっと前から、この公爵家そのものに、深い恨みを抱いている…?
「今日のところは、これでおしまいだ。また面白い『対価』を持ってきな、お嬢さん」
情報屋は、そう言って、話を打ち切った。
私は、あまりに大きな手がかりと、それ以上に巨大な謎を抱え、急いで酒場を後にする。
早く、早く、我が君の元へ戻らなくては。
私の心は、新たな恐怖と、焦りで、いっぱいだった。




