第二十話:近すぎる距離と、二重生活
「専属メイド」という、にわかには信じがたい役職を拝命してから、私の日常は、文字通り一変した。
朝、私がセレスティーナ様の寝室の扉を叩いて、彼女を起こすことから一日が始まり、夜、彼女が眠りにつくのを見届けて、自室に戻るまで。その間、私は、文字通り四六時中、彼女の側に侍ることになったのだ。
(天国か!? ここは天国なのか!? 我が君の麗しいお姿を、一日中拝見できるなんて!)
私の心は、有頂天だった。
だが、同時に、背筋が凍るような緊張感も常にあった。専属、ということは、彼女の身に何かあれば、全ての責任が私に降りかかってくるということだ。
(そうだ、これは監視なのだ。我が君の命を狙う輩がいたら、私が即座に発見し、排除するための!)
朝、眠っているセレスティーナ様の無防備な寝顔を間近で見てしまい、私の心臓が、また、いけない音を立てる。銀色の髪が、枕に静かに広がっている。その一房に、そっと触れてみたい、という衝動。
(いかんいかん! これは監視、これは任務…!)
私は、自分にそう言い聞かせ、邪念を振り払うように、力強くカーテンを開けた。
近すぎる距離は、私の理性を、容赦なく削り取っていく。
食事の時も、着替えの時も、入浴の準備の時も、私は常に彼女の側にいる。これまで知らなかった、セレスティーナ様の、完璧な『氷の薔薇』以外の顔を、私は否応なく知ることになった。
難しい本を読んで、こっそり眉をひそめる顔。美味しいお茶を飲んで、ほんの少しだけ、目元を和らげる顔。その全てが、私の心をかき乱した。
ある日、夜会用のドレスに着替えていたセレスティーナ様が、背中を向けたまま、静かに言った。
「…リリア。届かないわ」
ドレスの背中にある、無数の小さなフック。それを留めてほしい、ということらしかった。
「は、はい! ただいま!」
私は、緊張で震える指で、彼女の背中に触れた。
シルクのドレス越しに伝わる、華奢な肩甲骨の感触。近くで香る、花のようないい匂い。私の頭は、完全に沸騰していた。
ぎこちなくフックを留める私の様子を、セレスティーナ様は、鏡越しに、不思議そうな顔で見つめていた。
そんな、心臓に悪いメイド業務と並行して、私は、夜ごと、孤独な調査員へと姿を変えた。
セレスティーナ様が公務や剣の稽古で書斎を離れる、僅かな時間。あるいは、彼女が寝静まった、深夜。
私は、専属メイドという立場を利用し、書斎の膨大な資料を、片っ端から調べ始めた。
「ウィルクス商会」と「商人組合」。
公爵家が保管している、過去の取引記録や、各商会の信用調査報告書。その全てに目を通していく。
(前世で、もっと真面目に会社法とか勉強しておけばよかった…!)
半端な知識しか持ち合わせていない自分を呪う。だが、ないよりはマシだ。私は、必死に、情報の海から、意味のある欠片を拾い集めていった。
そんな二重生活は、着実に、私の心身を蝕んでいった。
ある夜、私が書斎でこっそり調査に没頭していると、背後で、不意に声がした。
「……何をしているの」
振り返ると、そこには、寝間着姿のセレスティーナ様が、腕を組んで立っていた。
「お、お嬢様! まだ起きていらっしゃったのですか!?」
「水を飲みに来ただけよ。あなたこそ、こんな夜更けに、私の書斎で、何を?」
「わ、わたくしは、その、勉強を! メイドとして、さらにご期待に沿えるよう、知識を深めておりました!」
我ながら、苦しい言い訳だ。
セレスティーナ様は、私の目の下にできた、濃い隈に気づいたようだった。
彼女は、深いため息を一つつくと、こう言った。
「言っておくけれど、リリア。私を監視するあまり、あなた自身が倒れては、元も子もないわ」
「……!」
「馬鹿なメイドを持つと、主人も苦労するのよ。本当に」
その言葉は、皮肉のようでいて、私の体を気遣う、不器用な優しさが込められていた。
胸の奥が、じわりと、温かくなる。
セレスティーナ様が去った後、私は、彼女の言葉を反芻していた。
(そうだ、私が倒れては、我が君を守れない…)
闇雲に調べるのではなく、もっと効率的に、的を絞って調査する必要がある。
私は、もう一度、ウィルクス商会の信用調査報告書に目をやった。
そして、以前は気にも留めなかった、一つの記述に、目が釘付けになった。
数年前、ウィルクス商会は、一度、経営難で潰れかけている。だが、その直後、正体不明の、莫大な資金援助によって、奇跡的に復活を遂げていたのだ。
「この、資金の出所…」
そうだ。ここだ。
これさえ分かれば、黒幕に繋がるかもしれない。
ようやく見つけた、一条の光。
私の瞳に、再び、闘志の火が宿った。




