第十七話:香煙のなかの攻防
決戦の朝、私は一睡もせずに、その時を迎えた。
不思議と、疲労感はない。むしろ、頭は氷のように冴えわたり、全身の感覚が、これ以上ないほど研ぎ澄まされているのを感じた。
セレスティーナ様の朝の準備は、私が全てを取り仕切った。
朝食のメニュー、ドレスの選定、身につける宝飾品。その全てを、不審な点がないか、徹底的にチェックする。
「……リリア」
「はい、我が君」
「あなた、今日、目の下に隈ができていてよ。それに、少し殺気立っているわ」
「これは、我が君をお守りするという、固い決意の表れでございます!」
「そう。ほどほどにしておきなさい」
セレスティーナ様は、呆れたようにそう言うと、鏡に映る私を一瞥した。その瞳に、ほんの一瞬だけ、心配するような色が宿ったように見えたのは、きっと、私の気のせいだろう。
王城にある貴族議会の議会場は、厳かな雰囲気に包まれていた。
高い天井、ステンドグラスの窓、ずらりと並んだ重厚な椅子。集まった有力貴族たちは、誰もが家の威信をその身に纏っている。
その中で、セレスティーナ様の「不吉の銀髪」は、やはり、嫌でも注目を集めていた。好奇、軽蔑、そして少しの恐怖。突き刺さるような視線の中を、彼女は、背筋を伸ばし、完璧な『氷の薔薇』として歩いていく。
私は、その気高い後ろ姿に、改めて忠誠を誓った。
報告会が始まった。
セレスティーナ様は、最前列の席に着席し、私は、そのすぐ後ろの壁際に控える。
私の神経は、極限まで張り詰めていた。
敵は、いつ、どこから、何を仕掛けてくる?
会場で配られる水や、茶菓子。その全てに、私は警戒の視線を送る。だが、私が毒見役を始めてから、飲食物への直接的な攻撃は鳴りを潜めていた。敵も、警戒しているのだ。
議会が、滞りなく進行していく。有力貴族たちの報告が、次々と行われていく。
何事も、起こらない。
私が、少しだけ、安堵の息をつきかけた、その時だった。
ふわり、と、会場に心地よい香りが漂い始めた。
議会の進行を妨げないよう、リラックス効果があるとされる、高価な香木が、会場の隅で静かに焚かれているのだ。他の貴族たちは、その上品な香りに、うっとりと目を細めている。
私も、最初は気にしていなかった。
だが、その香りを吸い込むうちに、私の脳の片隅で、警鐘が鳴り始めた。
(この香り……どこかで……? そうだ、厨房にあった、あの香辛料の香りに、ほんの少しだけ、似ている…!)
私は、戦慄した。
まさか。
敵は、飲食物に混ぜるのが難しいと判断し、気化した香りを吸わせることで、セレスティーナ様の体調を崩させようとしているのだ。
なんという、狡猾な手口。
これでは、誰が犯人なのか特定が極めて難しい。会場全体に効果が及ぶため、セレスティーナ様だけを狙ったとは、誰にも証明できない。
私は、セレスティーナ様の横顔を窺った。
彼女の顔色が、心なしか、少し青ざめて見える。額には、脂汗が滲んでいるようにも見えた。
まずい。我が君は、誰よりも、あの香辛料(毒)の影響を受けやすいのだ。
報告会の順番が、刻一刻とセレスティーナ様に近づいてくる。
あと、三人。二人。一人。
そして、議長が、厳かに告げた。
「――次に、ヴァイスハルト公爵代理、セレスティーナ・フォン・ヴァイスハルト嬢」
セレスティーナ様が、ふらつきそうになるのを、気力だけでこらえ、ゆっくりと立ち上がろうとする。
その姿を見て、私の頭の中で、何かが、ぷつりと切れた。
(このままでは、我が君が、皆の前で、倒れてしまう…!)
絶体絶命。万事休す。
大声で「この香には毒が!」と叫んでも、狂人扱いされてつまみ出されるだけ。
セレスティーナ様を無理やり席から立たせても、議会の進行を妨害したとして、ヴァイスハルト家の名誉に、取り返しのつかない傷がつく。
どうする。どうすればいい。
私の頭が、前世の記憶も含めて、猛烈な速度で回転する。
そして、一つの、あまりにも無謀で、私の全てを失いかねない「賭け」に、たどり着いた。
私は、メイド服のポケットに忍ばせていた、小さな布袋を、そっと握りしめた。
中身は、厨房からこっそり拝借してきた、乾燥した唐辛子の粉末だ。
(我が君、お許しください。この、不敬の極みをお許しください)
私は、セレスティーナ様が、まさに一歩、前へ踏み出そうとした、その瞬間を狙った。
(ですが、これしか、方法が…!)
私は、全ての覚悟を決めて、行動を起こした。




