第百十六話:捧げるべきもの
開かずの書斎。
私は、父君が遺した血の滲むような研究記録と、クロイツェル教授の謎めいた言葉を、ただ、繰り返し反芻していた。
『――対価は、魂核に根差す、最も根源的な「何か」だ』
『――魂を構成する、根源的な要素。すなわち、記憶、感情、絆……』
魂の価値。
セレスティーナ様の、その、あまりに大きく気高い魂と等価交換できるほどの「対価」とは、一体、何なのか。
この、リリア・アシュワースという、ただのメイドの魂に、それほどの価値があるとは、到底思えない。
私の、これまでの人生を振り返る。
前世では、司法試験に失敗し、夢破れた、ただのしがない浪人生。
今世では、無気力に日々を過ごす、ただのモブメイドA。
そんな空っぽの私の人生に、初めて、意味と輝きを与えてくれたもの。
―――
『――あなたらしい、単純で、馬鹿正直な答えね』
そう言って、呆れたように、でも、どこか優しく微笑んでくれた、雪解けの庭での、あなたの横顔。
『――あなたがいる限り、私は決して道を踏み外さない』
吹雪の山小屋で、私の手を握り、そう誓ってくれた、あなたの力強い瞳。
『――ありがとう、リリア』
禁書庫の闇の中で、私の胸で、子供のように泣きじゃくった、あなたの、か細い声。
―――
その一つ一つの記憶が、私の、空っぽだった心を、満たしていく。
そうだ。
私が、私であれる理由。
私が、この過酷な世界で、まだ立っていられる、唯一の理由。
それは、全て。
「……あなた様を、推していた、記憶……」
ぽつり、と、声が漏れた。
その瞬間に、私は、全てを理解してしまった。
私が捧げるべき「対価」の、その、あまりに残酷で、そして唯一無二の正体に。
この、リリア・アシュワースという人間をたらしめている、最も根源的なもの。
それは、日本で生きた「前世の記憶」。
そして、その記憶があったからこそ生まれた、この世界で唯一無二の宝物。セレスティーナ・フォン・ヴァイスハルトという、一人の人間を、私の「推し」として、どうしようもなく愛してしまった、「全ての想い」。
それを失えば。
私は、もう、私ではなくなる。
ただ言われたことだけをこなす、空っぽのメイド人形に戻るのかもしれない。
それでも。
「……結構、ですわ」
私の唇に、静かな笑みが浮かんだ。
あなた様が救われるのなら。
あなた様が、笑って生きていける未来が手に入るのなら。
私の、この、ちっぽけな心など、喜んで捧げてみせましょう。
私は、静かに立ち上がった。
その足取りに、もう、迷いはなかった。
儀式の最後の準備を始めるために。
私の、この恋心との、永遠の決別のために。
第百十六話「捧げるべきもの」、いかがでしたでしょうか。リリアは、ついに、自らが捧げるべき「対価」の正体にたどり着き、その、あまりに過酷な運命を、受け入れました。
次回、第百十七話「援軍到着」。白氷城に、赤き戦姫が、到着します。どうぞ、お楽しみに。
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