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第十一話:氷の令嬢の、奇妙な命令

 私が「この恋心はバグだ」と断定し、心の奥底に封じ込める決意をしてから、数日が過ぎた。

 結論から言えば、私の決意は、驚くほど役に立たなかった。


(ダメだ、ダメだ、ダメだ! 我が君の唇を見てはいけない! あの、涼しげで、形の良い、薄い唇を! 邪念、退散!)


 書斎で、セレスティーナ様に紅茶をお出しする、ただそれだけの行為に、私はもはや全神経を集中させる必要があった。視線が、どうしても、彼女の顔のパーツに吸い寄せられてしまうのだ。

 私の挙動不審ぶりは、日に日に悪化していった。お盆を持つ手が震え、紅茶をこぼしかける。本棚を整理していると思えば、いつの間にか、うっとりとセレスティーナ様の横顔を眺めていて、我に返って頭を壁に打ち付ける。


 そんな奇行を繰り返す私を、セレスティーナ様は、もはや呆れるでもなく、叱るでもなく、ただ、温度のない瞳で、じっと観察していた。その視線が、私の罪悪感をさらに煽る。


(見透かされている…! 私の、この汚れた心が…!)


 そんなある日のこと。

 その日も、私は書斎で、内心の葛藤と格闘しながら、必死に仕事に打ち込んでいた。

 不意に、セレスティーナ様が、読んでいた本から顔を上げた。


「リリア」

「は、はいぃっ!」


 突然名前を呼ばれ、私はカエルのような裏返った声を上げてしまった。


「あなた、明日、一日休みを取りなさい」

「……へ?」


 予想だにしなかった言葉に、私は間抜けな声で聞き返す。

 休み? この私が? まさか、ついに解雇の宣告だろうか。いや、それにしては、言い方が優しすぎる。


「ですが、なぜ…? 私は、メイドとして、まだまだ…」

「命令よ」


 セレスティーナ様は、有無を言わさぬ、静かな口調で言った。

「最近のあなたは、明らかに集中力を欠いているわ。そんな状態で側にいられては、こちらの調子まで狂う。…いいこと? 明日は一日、屋敷から出て、頭を冷やしてきなさい。これは、業務命令よ」


 それは、紛れもなく、気遣いだった。

 私の不調を見抜き、休養を与えようとしてくれている。その事実が、私の心を、喜びと罪悪感でぐちゃぐちゃにかき混ぜた。


(ああ、我が君…! この、不忠で、邪な心を持つメイドにまで、慈悲をかけてくださるなんて…! なんてお優しい!)


 感激に打ち震える私に、セレスティーナ様は、一枚の羊皮紙と、小さな革袋を差し出した。


「それから、これも命令よ」

「これは…?」

「王都の第五区画にある、『クロウリー商会』という店に行きなさい。そこに、このリストにある品物を、すべて買ってきてほしいの」

「お使い、でございますか」

「ええ。ただし、これは公爵家の仕事ではないわ。…私の、個人的な買い物よ」


 革袋の中には、ずっしりと、銀貨が入っていた。一個人が使うには、あまりに大きな金額だ。

 そして、リストに書かれていたのは、見たこともないような品物の名前ばかりだった。

『星屑石の粉末』『リュカオンの爪』『水銀の雫』。どれも、およそ令嬢の買い物とは思えない、怪しげな名前が並んでいる。


(これは、一体…?)


 私の疑問を見透かしたように、セレスティーナ様は、冷たく付け加えた。

「何に使うのか、などと、余計な詮索はしないように。ただ、言われた通りに、買ってくればいいのよ。…お釣りは、あなたが好きに使っていいわ。一日、羽を伸ばしてくるといい」


 その言葉は、優しさのようでいて、決して本心を明かさない、氷の壁を感じさせた。

 私は、その羊皮紙と革袋を、恭しく受け取る。


「…かしこまりました。必ずや、ご期待に応えてみせます」


 次の日。私は、久しぶりにメイド服ではない、簡素な街娘の服に着替え、王都へと向かった。

 屋敷の外の空気は、どこか解放的で、私の心を少しだけ軽くしてくれた。


(よし、これは、我が君から与えられた、初めての秘密の任務だ! 完璧にこなして、私の有用性を示してみせる!)


 恋心は、いったん心の奥底に封印だ。

 今は、任務に集中する。

 私は、頬をパンと叩き、気合を入れると、目的地である『クロウリー商会』を目指して、雑多な人々の間を歩き始めた。


 この奇妙な買い物が、やがて、セレスティーナ様を狙う、見えない敵の正体に繋がる、重要な手がかりになるということを。

 この時の私は、まだ、知る由もなかった。

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