峡谷の死闘と、鉄を食らう群れ
補給所を出発してから数時間。
見渡す限りの荒野だった景色は、次第に険しい岩肌が露出する峡谷へと変わっていた。
両側に切り立った崖が迫り、空が狭くなる。
蒸気機関車の轟音が岩壁に反響し、これまでとは違う、腹に響くような重低音となって車内を包み込んでいた。
「速度を落とせ! ここからは慎重に行くぞ!」
前方の機関車から、技師長の怒鳴り声が伝わってくる。
ブレーキが軋む音と共に、列車は徐々に速度を落とし始めた。
視界が悪く、死角の多いこの地形では、全速力で駆け抜けるのはあまりに危険だという判断だろう。
俺たちは客車の窓を開け、湿った冷たい風を感じながら、油断なく周囲を警戒していた。
「……師匠」
不意に、クリスが口を開いた。
彼は線路脇を流れていくレールを見つめ、ふと湧いた疑問を口にする。
「奴らが『鉄喰い』だとして、なぜ『線路』は無事なのでしょうか? あれも鉄の塊ですよね? 列車が通る前に食われていてもおかしくないはずですが」
もっともな疑問だ。
その問いに答えたのは、たまたま近くで計器の確認をしていた若い整備士だった。
「ああ、それですか。線路には敷設する時に、奴らが嫌う臭いのする特殊な油――忌避剤をたっぷりと塗ってあるんですよ」
「忌避剤、ですか」
「ええ。ですが、走っている列車は別です。車輪は摩擦熱で油が飛びますし、何より奴らは『熱を持った鉄』を好む習性があるんです」
整備士は、足元で唸りを上げる機関部を指差した。
「今のこの列車は、奴らにとって最高に熱々なご馳走ってわけですよ」
なるほど、理に適っている。
そして同時に、俺たちが今、巨大な餌に乗って移動しているという事実を突きつけられた形だ。
俺は苦笑し、愛刀の柄を無意識に撫でた。
その時だった。
「……おと、する」
窓に張り付いていたロウェナが、ぴくりと耳をそばだてた。
「音?」
「うん。ガリガリって……たくさん」
俺たちが耳を澄ませても、聞こえるのは車輪の音と蒸気の音だけだ。
だが、ロウェナの感覚を疑う理由はどこにもない。
直後。
ズズズッ……!
線路脇の岩陰や地面が、突然爆発したように盛り上がった。
舞い上がった土煙の中から、無数の黒い影が飛び出してくる。
「敵襲ッ!!」
誰かの叫び声と同時に、車体がガクンと激しく揺れた。
窓から身を乗り出して確認すると、そこには異様な光景が広がっていた。
体長一メートルほどあろうかという、巨大なダンゴムシと蟹を掛け合わせたような魔物。
鈍い光沢を放つ鋼鉄色の甲羅を持ち、無数の脚で器用に車体にしがみついている。
『鉄喰い』だ。
奴らは人間には目もくれず、整備士の言葉通り、熱を帯びた車輪や連結器に群がり、その強力な顎でガリガリと齧り付いていた。
ブレーキがかかったかのように、列車の速度がさらに落ちる。
「前方は俺たち『ライオット』で抑える! お前たちは後ろへ回れ! 貨車をやられるな!」
先頭車両を守るベテラン冒険者からの指示が飛んだ。
「行くぞ!」
俺はクリスとロウェナを促し、客車を飛び出した。
屋根伝いに後方へと走る。
だが、中間車両に差し掛かったところで、俺は足を止めた。
「チッ……ここもか!」
資材を積んだ貨車の下、連結器周りに数匹の鉄喰いが取り付き、火花を散らしながら金具を齧っている。
このまま放置すれば、連結器を破壊され、車両が分断されてしまう。
俺は即座に判断を下した。
「クリス! お前は一人で行け! 後ろの『ファーリヒト』を助けてやれ!」
「えっ!? し、師匠は!?」
「俺とロウェナはここで食い止める! ここをやられたらお前たちが取り残されるぞ!」
クリスは一瞬戸惑ったが、俺の目を見て、すぐに覚悟を決めたようだった。
「……はいッ! 行ってきます!」
彼は力強く頷くと、単身、最後尾へと駆けていった。
俺はその背中を見送り、ロウェナに向き直る。
「ロウェナ、お前はあそこの資材の隙間に隠れてろ。絶対に顔を出すなよ」
「わかった! でも、おしえる!」
「ああ、頼む!」
ロウェナを安全な場所に押し込むと、俺は愛刀を抜き、車体の側面へと躍り出た。
ガキンッ!
一番近くにいた鉄喰いに斬りかかる。
だが、手に伝わってきたのは、まるで分厚い鉄板を叩いたような重い衝撃だった。
刃は通ったが、浅い。
「……硬ぇな。いちいち叩き斬ってたら刃が持たんぞ」
俺は舌打ちし、すぐに戦法を切り替える。
「えど、みぎ! したからくる!」
ロウェナの声が響く。
俺はその声に反応し、右下の死角から這い上がってきた個体を視界に捉えた。
奴が車体にしがみつこうと、腹を晒した瞬間。
俺は列車の揺れに身を任せ、流れるような動きで切っ先を突き出した。
ズブッ。
甲羅の継ぎ目、柔らかい節の部分に、刃が吸い込まれるように深々と突き刺さる。
鉄喰いは甲高い悲鳴を上げ、線路へと転がり落ちていった。
「次ッ!」
俺は力任せに振るうのをやめ、針の穴を通すような精密な刺突に徹した。
ロウェナの指示と、俺の剣技。
二人の連携で、群がる鉄喰いを次々と排除していく。
一方、最後尾の貨車では、若手パーティー『ファーリヒト』が絶望的な戦況に追い込まれていた。
「だ、駄目だ! 槍が通らねえ!」
「弾かれる! なんだこいつらの硬さは!」
普段、船の護衛で柔らかい海獣や人間を相手にしている彼らにとって、鋼鉄の装甲を持つ魔物は相性が悪すぎた。
焦りから力任せに武器を振るい、刃こぼれを起こし、さらにパニックに陥る悪循環。
そこへ、一陣の風のようにクリスが舞い降りた。
「落ち着いてください!」
クリスは叫びながら、若手たちの前に割って入る。
「甲羅を叩かないで! 足を狙ってバランスを崩させるんです!」
彼は手本を示すように、飛びかかってきた鉄喰いの脚を、剣の峰で払った。
体勢を崩した魔物は、そのまま列車の揺れに耐えきれず、滑り落ちていく。
「こいつらは重い! 車上から落とせば、勝手に自滅します!」
「そ、そうか! 落とせばいいのか!」
クリスの的確な指示に、若手たちの目に光が戻る。
彼らは互いに声を掛け合い、連携して魔物を追い落とし始めた。
やがて、車体に取り付いていた鉄喰いの数が目に見えて減り始めた。
中間車両の掃除を終えた俺は、ロウェナを抱えて後方へと合流する。
「よくやった、クリス!」
「師匠! こちらも片付きました!」
俺たちの勝利を確信したのか、前方の機関車から凄まじい排気音が轟いた。
「掴まってろォ! 振り切るぞ!!」
技師長の怒鳴り声と共に、釜の火力が最大まで上げられる。
ドォォォォォン!
爆発的な加速。
しがみついていた残りの鉄喰いたちが、遠心力に耐えきれずに次々と振り落とされていく。
列車は黒煙をなびかせ、魔物の群れを置き去りにして峡谷を駆け抜けた。
鉄喰いの襲撃エリアを抜け、列車は再び速度を落とした。
まだ峡谷地帯は続いている。
警戒を解くわけにはいかない。
俺たちは交代で見張りをしながら、さらに二日間、慎重に進み続けた。
やがて、両側に迫っていた岩壁が途切れ、視界が一気に開けた。
見晴らしの良い平原に出たのだ。
「抜けたぞ……!」
誰かの安堵の声と共に、列車は再び速度を上げ、軽快なリズムを刻み始めた。
その日の夕暮れ時。
前方に、いくつもの煙突から黒煙を上げる街並みが見えてきた。
カレドヴルフへの中間地点、炭鉱街『コールベルク』だ。
列車が駅――と言っても、石炭置き場と給水塔があるだけの簡素な場所だが――に滑り込み、長い蒸気を吐いて停止する。
技師たちが一斉に飛び降り、車体の確認に走る。
「車輪に噛み傷多数! 装甲板にも凹みあり!」
「連結器、一部摩耗してます!」
報告を聞いた若い整備士が、不安そうに技師長に尋ねた。
「技師長、ここの整備工場に入れますか? 一度バラして点検した方が……」
だが、煤で真っ黒になった技師長は、頑固に首を振った。
「いや、この程度なら走れる。点検と、最低限の応急処置だけでいい」
「えっ、でも……」
「いいか、これは耐久テストでもあるんだ。最後までこいつの地力を信じるぞ。ハンマーを持ってこい! 歪んだ装甲は叩いて直す!」
その職人気質な言葉に、俺たちは顔を見合わせて苦笑した。
駅のベンチに腰を下ろし、俺たちは煤けた街並みを眺めながら一時の休息をとる。
「……ふぅ。さすがに疲れたな」
俺が伸びをすると、隣でクリスも大きく息を吐いた。
「ええ。でも、いい経験になりました。あの魔物、硬かったですけど……なんとかなるものですね」
「ああ。お前の指示、的確だったぞ」
俺が褒めると、クリスは照れくさそうに鼻を擦った。
ロウェナは、配られた水を美味しそうに飲み干し、にこりと笑った。
「てつのうま、つよいね。ガリガリされても、へいきだった」
「そうだな。こいつは頑丈だ」
カレドヴルフまでは、まだ距離がある。
だが、最大の難所は越えたはずだ。
俺たちは心地よい疲労感と共に、煙の匂いがする風に吹かれていた。




