鉄の馬と、湯けむりの憧憬
ヴァンデルの朝は、小鳥のさえずりではなく、重厚な金属音と蒸気の噴出音で始まった。
宿の窓から差し込む光は、どこか煤けていて、空気には鉄と油の匂いが混じっている。
昨夜は港に着くなり泥のように眠ってしまったが、目覚めて改めて窓の外を見下ろすと、そこにはリューベックとは全く異なる「産業の街」の姿があった。
宿の食堂で、労働者向けの味の濃い朝食――黒エールで煮込んだ肉塊と揚げパン――を腹に詰め込みながら、俺たちは今後の予定を話し合う。
「まずはギルドだ。カレドヴルフへの道筋を確かめよう」
食事を終えた俺たちは、早々に街へと繰り出した。
街並みは無骨だった。
建物は赤レンガと鉄骨で補強され、道路には重い荷車を通すためのレールが敷かれている。
行き交う人々も、煤で顔を汚したドワーフや、筋肉隆々の鍛冶職人ばかりだ。
午前中の冒険者ギルドは、仕事を探す荒くれ者たちでごった返していた。
俺たちがカウンターでカレドヴルフへの移動手段について尋ねると、受付の職員は地図を広げて説明してくれた。
「カレドヴルフはここから遥か西、山脈の麓にあります。ここからだと、馬車を使っても一月半はかかりますね」
「一月半ですか……。では、徒歩なら?」
クリスが尋ねると、職員は眉をひそめた。
「健脚な方でも二ヶ月、いやそれ以上でしょう。道中は険しい山道ですし、点在する職人街以外は何もない荒野も多いですから」
「二ヶ月……。それはまた、長い道のりですね」
クリスが溜め息混じりに唸る。
だが、俺は地図を見つめながら、少し考えた後に口を開いた。
「徒歩で行こう」
「えっ? 師匠、本気ですか? 二ヶ月ですよ?」
驚くクリスに、俺は静かに笑ってみせた。
「以前も言っただろう。俺は、この世界の景色をゆっくり見て回りたいんだ。馬車で駆け抜けるだけじゃ味気ない。自分の足で歩いてこそ、見えるもんがある」
それに、ロウェナも色々なものを見たがっているしな。
俺がロウェナを見ると、彼女は嬉しそうに何度も頷いた。
「うん! あるくの、すき!」
方針が決まれば、あとは準備だ。
俺たちはギルドを出て、まずはこの珍しい「鉄の街」を少し見て回ることにした。
市場や工房を冷やかしながら歩いていると、街外れの操車場のような場所で、人だかりができているのが見えた。
プシューーーーーッ!
耳をつんざくような排気音と共に、白い蒸気が空高く噴き上がっている。
「きゃっ!」
ロウェナが驚いて俺の後ろに隠れる。
蒸気の向こうに見えたのは、巨大な黒い鉄の塊だった。
車輪がついているが、馬はいない。
代わりに、巨大な釜のような胴体と、無骨な装置が備え付けられている。
魔法の気配は微塵もしない。
純粋な機械仕掛けの、未知の乗り物だ。
「な、何ですかあれは……! 鉄が、生き物のように……!」
クリスが目を丸くして凝視していると、その鉄塊の横で、激しい怒号が聞こえてきた。
「だから! 護衛が足りんと言っとるだろうが!」
声の主は、油と煤にまみれた作業着を着た、頑固そうなドワーフの老人だった。
彼は、身なりの良い管理者らしき男に詰め寄っている。
「今回の試験運行は中止だ! 『鉄喰い』の群れが出るんだぞ! 大事な機関車を鉄屑にされてたまるか!」
「し、しかし技師長! カレドヴルフへの資材搬入は急務なんです! 護衛の冒険者は二組も雇ったじゃありませんか!」
「あんなひよっこ共で、あの硬い甲羅を持つ魔物の群れを捌けるかッ! 普段ならいざ知らず、今回は数が違うんだぞ! 奴らは名の通り『鉄を食う』んだぞ!」
俺はその会話に耳をそばだてた。
『鉄喰い』そして、カレドヴルフへの資材搬入。
(……なるほど。あれに乗れば、山麓まで一っ飛びというわけか)
景色を見ながらゆっくり、とは言ったばかりだが、この未知の乗り物に乗れる機会を見逃す手はない。
それに、面白そうだ。
俺はニヤリと笑うと、二人の背中を押した。
「行くぞ。仕事の時間だ」
俺たちは一度ギルドへ戻り、掲示板の隅に貼られていた「蒸気機関車の試験運行護衛」の依頼書を確認する。
依頼は二種類あった。
一つは往復、もう一つは片道のみ。
「俺たちはカレドヴルフへ行くのが目的だ。片道の方を受けるぞ」
正規の手続きを経て依頼を受注すると、俺たちは依頼書を手に、再び操車場へと戻った。
「あん? なんだお前らは」
ドワーフの技師長は、俺たちを見るなり眉間に深い皺を刻んだ。
特に、ロウェナの姿を見て、あからさまに不機嫌な顔になる。
「おいおい、遠足じゃねえんだぞ。ガキ連れで務まる仕事じゃねえ。帰んな!」
「仕事はきっちりこなす。追加の護衛が必要なんだろう?」
俺は悪びれずに答える。
「はんッ! 口だけなら何とでも言えるわ! いいか、相手は『鉄喰い』だ。鉄の様に硬い甲羅と、鉄を噛み砕く顎を持つ魔物だぞ。生半可な剣じゃ刃がこぼれるだけだ!」
「……そうか。鉄より硬いのか」
俺は辺りを見回し、足元に転がっていた廃材の鋼材に目をつけた。
太さは大人の太腿ほどもある、赤錆びた分厚い鉄の塊だ。
「爺さん。こいつ、切っても構わないか?」
「あぁ? 何言ってやがる、そんなもん切れるわけが……」
技師長が鼻で笑おうとした、その瞬間だった。
チャッ。
微かな音がして、俺は既に納刀していた。
一拍遅れて、キィィン……という金属音が響く。
鋼材が、斜めにずれて、ドシンと地面に落ちた。
断面は、鏡のように滑らかだった。
「なっ……!?」
技師長は目を剥き、切断面を指でなぞる。
そして、顔を上げると、ニカッと歯を見せて豪快に笑った。
「ガハハハハ! こりゃあすげえ! 気に入った! 乗せてやる、文句はねえ!」
実力が認められ、俺たちは他の護衛たちと顔合わせをした。
以前から試験運行に携わっているというベテランの『ライオット』パーティーと、今回新しく雇われた若手の『ファーリヒト』パーティーだ。
『ファーリヒト』のリーダーらしき若者が、少し緊張した面持ちで挨拶してくる。
「普段は船の護衛をメインにやってるんですが、今回は手が空いていたもので……陸の護衛は不慣れですが、よろしくお願いします」
俺たちは配置などのすり合わせをしつつ、重要なことを尋ねた。
「なあ、この護衛で特に必要なものはあるか?」
ベテランの『ライオット』のリーダーが答えてくれた。
「そうだな……まず、煤が酷いからゴーグルとマスクは必須だ。あと、機関車の音で耳がやられるから耳栓もあるといい。それと、火気厳禁の場所があるから、調理不要な干し肉なんかの食料を多めに持っておくことだな」
なるほど、ありがたい情報だ。
出発は明日の昼前。
午後になり、俺たちは遅めの昼食を兼ねて、ヴァンデルの市場へと向かった。
屋台で買った肉厚のサンドイッチを片手に、店を回る。
教わった通り、煤煙を防ぐためのゴーグルやマスク、そして長旅に備えた保存食を買い揃えていく。
夕方になり、荷物がまとまった頃、ロウェナが俺の袖をくいっと引いた。
「えど……」
「ん? どうした」
「あのね……おふろ、いきたい」
彼女は自分の髪の毛先をいじりながら、上目遣いで言った。
「きのうは、すぐねちゃったから……ふねのったし、あせもかいたし……」
言われてみれば、昨夜は到着の疲れでそのまま寝てしまった。
それに、この街は空気が煤っぽく、歩いているだけで肌がざらつく気がする。
「そうだな。さっぱりしてから飯にするか」
俺たちは街の人に聞き、労働者たちが通うという大衆浴場へと向かった。
暖簾をくぐると、番台の前で俺は二人に尋ねた。
「どうする? 別々にするか?」
俺の問いに、三人は無言で顔を見合わせる。
そして、示し合わせたように頷き合った。
旅の結束と、見知らぬ土地で離れることへの警戒心。
そして何より、三人でいることの自然さが、迷わず一つの答えを選ばせた。
「個室で頼む」
通された個室の浴槽は、三人で入るにはやや窮屈な石造りのものだった。
まずはクリスが先に入り、カラスの行水のように手早く汗を流して上がる。
彼は気を利かせて、「先に出て、冷たい飲み物を頼んでおきますね」と部屋を出て行った。
残された俺とロウェナは、湯を張り替え、湯船に身を沈めた。
「ふぅ……」
熱めの湯が、疲れた体に染み渡る。
ロウェナも、ぷはぁ、と息を吐き、気持ちよさそうに目を細めた。
俺は手ぬぐいを取り、ロウェナの背中を流してやる。
その時、ふと気づいた。
旅の途中でしっかりと食事を摂り、野山を歩き回ったおかげだろう。
背中には薄く筋肉がつき、肌には健康的な弾力が戻っている。
そして、何より――。
(……大きくなったな)
子供の体型から、ほんのわずかだが、少女のそれへと変化しつつある兆しが見て取れた。
ロウェナは、湯船の中で自分の胸元をそっと手で覆い、ぽつりと呟いた。
「……フィオナやライラみたいに、なれるかな」
その言葉に、俺の手が止まる。
『黒い短剣』の女剣士、フィオナ。そして斥候のライラ。
彼女たちの、完成された大人の女性としての体つきと、凛とした強さ。
ロウェナは、自分の未熟な体と彼女たちを重ね合わせているようだった。
だが、その横顔に焦りや悲壮感はない。
あるのは、自分の体が少しずつ変わり始めていることへの、くすぐったいような実感と、未来への淡い憧れだった。
以前は平坦だった胸が、ほんの僅かだが膨らみ始めている。
手足も少し伸び、子供特有の寸胴な体型から変わりつつある感覚。
「ライラみたいに、きれいで、つよくて……」
彼女は自分の胸に手を当て、水面を見つめる。
その瞳は、いつか自分がたどり着くであろう大人の姿を夢見ているようで、キラキラと輝いていた。
俺は再び手を動かし、彼女の背中を力強く、しかし優しく擦った。
「なれるさ」
俺は短く、断言した。
「お前は毎日、成長してる。体も、心もな。きっと、素敵な女性になる」
ロウェナは振り返り、湯気越しに俺の顔を見た。
そして、嬉しそうに、はにかんだ笑顔を見せた。
「うん……! たのしみ!」
風呂から上がると、食堂ではクリスが冷えた果実水を三つ用意して待っていた。
「さっぱりしましたか?」
「ああ、生き返ったよ」
冷たい水を喉に流し込み、火照った体を冷ます。
窓の外では、夜になっても止むことのない工場の操業音が、低い地鳴りのように響いていた。
明日はいよいよ、未知の乗り物「鉄の馬」での出発だ。
待ち受けるのは、『鉄喰い』の群れ。
だが、俺たちなら大丈夫だ。
湯上がりのロウェナの横顔には、以前のような怯えはなく、明日への静かなワクワクとした期待が宿っていた。




