西の果ての港と、旅の記録
海賊の襲撃という一幕こそあったものの、それ以降の航海は、拍子抜けするほど平穏だった。
俺は『海燕丸』の甲板で、潮風に吹かれながら、遠い水平線に目を細める。
あの日、圧倒的な武力で海賊を追い払った噂が広まったのか、あるいは単なる偶然か。
時折、遠くに不審な船影が見えることはあったが、こちらの旗印を確認するや否や、蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていくばかりだった。
「結局、剣を抜いたのはあの一回きりだったな」
舵輪を握るガイル船長が、隣で可笑しそうに肩を揺らす。
「まったくだ。腕が鈍っちまうよ」
近くでロープを巻いていた古株の船員が、ニカッと笑って口を挟む。
「普通なら、もっと質の悪い連中に絡まれる航路なんだがなぁ……やっぱりアレだ、ロウェナ嬢ちゃんのおかげだ!」
「違げぇねえ! あの子は風も呼ぶし、敵も追っ払う。最高のマスコットだぜ!」
船員たちは口々にロウェナを称賛し、マストの下でリュートを爪弾く彼女に温かい視線を送る。
ロウェナは自分の名前が出たことに気づき、照れくさそうに、しかし誇らしげにへへと笑った。
その隣では、クリスが「ロウェナちゃんは凄いですから!」と、まるで自分のことのように鼻を高くしている。
やがて、見張り員の声が響き渡る。
「港が見えたぞォ! ヴァンデルだ!」
水平線の彼方に、黒々とした陸影が迫ってくる。
近づくにつれ、その全貌が明らかになる。
巨大な石造りの防波堤、空へと伸びる無骨な鉄の煙突、そしてそこから吐き出される白煙。
リューベックの木のぬくもりとは対極にある、鉄と石と、油の匂いがする産業の街。
西の大陸の玄関口、『ヴァンデル』だ。
入港の準備で船内が慌ただしくなる前に、俺たちは世話になった仲間たちと、最後の挨拶を交わした。
厨房では、クリスが師と仰いだコックのガンツと向き合っていた。
「ガンツさん……長い間、本当にありがとうございました。あなたに教わったこと、一生忘れません!」
感極まって目を潤ませるクリスに、ガンツはいつものようにぶっきらぼうに鼻を鳴らす。
「フン、大袈裟な奴だ。……ほらよ」
ガンツは懐から、小さな包みを取り出してクリスに投げ渡した。
中には、使い込まれた砥石が入っていた。
「西の大陸に行っても、包丁の手入れは怠るなよ。道具を大事にできねえ奴は、いい飯も作れねえからな」
「は、はいっ!」
クリスは砥石を胸に抱きしめ、深く頭を下げた。
甲板では、ロウェナが船員たちに囲まれている。
「嬢ちゃん、元気でな!」
「また歌いに来いよ!」
彼らは代わる代わるロウェナの頭を撫で、手慰みに彫った木彫りのイルカや、珍しい色の小石なんかを、彼女のポケットに詰め込んでいく。
ロウェナはポケットをパンパンに膨らませながら、一人一人に「ありがとう」と笑顔で応えていた。
そして俺は、ガイル船長と固い握手を交わしていた。
「あんたたちのおかげで、いい航海だったよ。カレドヴルフまでは長い陸路だ、気をつけてな」
「ああ。船長も達者で」
「おうよ。もし帰りの足が必要になったら、またウチを探しな。歓迎するぜ」
ドォン、と鈍い音がして、船体が岸壁に横付けされる。
タラップが下ろされ、俺たちはヴァンデルの大地へと足を踏み出した。
鼻をつくのは、石炭の煤けた匂いと、金属が擦れ合う音。
リューベックとは違う、重厚で煤けた空気感が、ここが異国の地であることを告げている。
俺たちは一度だけ振り返った。
積荷の搬出で慌ただしく動き回る『海燕丸』の船員たちが、手を休めてこちらに大きく手を振ってくれている。
長い時間を共にした「家」を離れる一抹の寂しさと、新たな旅への期待。
俺たちは大きく手を振り返すと、前を向き、雑踏の中へと歩き出した。
その夜、俺たちは港の近くにある、船員向けの宿をとった。
石造りの頑丈な宿は、飾り気はないが質実剛健で、長旅の疲れを癒やすには十分だった。
久しぶりの揺れないベッド。
クリスとロウェナは、別れの興奮と新しい街への緊張が解けたのか、夕食を済ませると早々に深い眠りに落ちていた。
部屋には、二人の穏やかな寝息だけが響いている。
俺は窓辺の椅子に腰掛け、月明かりの下で一服した。
ふと、背囊の奥にしまい込んでいたものを思い出す。
「……そういえば、しばらく書いてなかったな」
俺は荷物の中から、アポン川の宿場町で買った防水加工の革袋を取り出した。
中から出てきたのは、少し湿気を帯びた革張りの手帳だ。
インク壺とペンを用意し、ページをめくる。
最後に書かれた文字は、リューベックの「歌う洞窟」へ向かう前のもので止まっていた。
あれから、あまりにも多くのことがありすぎた。
俺はペン先にインクをつけ、空白のページに記憶を落とし込んでいく。
――リューベックの洞窟にて。
人魚との邂逅。
詳細は伏せつつ、あの夜の神秘的な体験と、ロウェナたちが手に入れた虹色の巻貝のことを記す。
――港を襲った長い凪。
ロウェナの歌声が風を呼び、俺たちは『海燕丸』に乗ることになった。
――クリスの酷い船酔いと、ロウェナの順応の速さ。
――海賊の襲撃。
船上での立ち回りは、衛兵時代の経験が活きた。
――船員たちとの日々。
クリスの料理、ロウェナの歌、そして俺の木剣での稽古。
ペンを走らせるたびに、潮風の匂いや、船員たちの笑い声が鮮やかに蘇る。
そして、最後に。
――西の大陸、港町ヴァンデルに到着。
俺はそこでペンを止め、小さく息を吐いた。
これで、空白は埋まった。
次の行に、明日の予定を書き加える。
『明日は、カレドヴルフへの道を探す』
手帳を閉じ、革袋にしまう。
窓の外を見上げると、異国の月が、リューベックで見た時と同じように、静かに俺たちを照らしていた。
旅は続く。
まだ見ぬ「鍛冶の街」を目指して。
俺は椅子から立ち上がり、音を立てないようにベッドへと潜り込んだ。




