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【23000pv感謝】元衛兵は旅に出る〜衛兵だったけど解雇されたので気ままに旅に出たいと思います〜  作者: 水縒あわし
最新章

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海上の教室と、銀鱗の跳躍



 リューベックの港を出て三日。



 『海燕丸うみつばめまる』は、陸の人間には想像もつかないような高いうねりの中を、木の葉のように進んでいた。



 視界の全てを青一色が埋め尽くす外洋の世界。



 どこまでも変わらない水平線と、絶え間なく響く波の音だけが、俺たちの世界の全てだった。



 そんな揺れる世界の中で、一人の青年が甲板の手すりにすがりつき、蒼白な顔で海面を睨みつけていた。



「……うっぷ……」


 クリスだ。



 出航時の高揚感はどこへやら、彼は三日三晩、船酔いという名の拷問に苛まれ続けていた。



 胃の中はとっくに空っぽのはずだが、容赦ない揺れが三半規管を揺さぶり続ける。



「おい、大丈夫かよおかの兄ちゃん」


 通りがかった船員が、からかうように、しかし心配そうに声をかける。



 クリスはふらつきながらも顔を上げ、力なく、しかし意志の篭った瞳で答えた。



「……平気、です……。いつまでも、寝ているわけには……いきませんから……」


 彼は震える足でどうにか踏ん張ると、近くにあったモップを掴み、よろめきながらも甲板掃除の列に加わろうとした。



 その生真面目すぎる姿に、荒くれ者の船員たちも苦笑しつつ、やがて「無理すんなよ」「こっちのロープ頼むわ」と、少しずつ彼を仲間として受け入れ始めていた。


 一方、驚くべき適応力を見せていたのは、最年少のロウェナだった。



「みてみて! これ、『ほうきぼし』!」


 マストの陰、風が避けられる特等席で、ロウェナは数人の屈強な船乗りたちに囲まれていた。



 彼女の小さな指が、輪にした細いロープを巧みに操り、次々と形を変えていく。



 あやとりだ。



「おおっ! すげえな嬢ちゃん! 次は俺に貸してみろ!」


「違うぞボウズ、そこは指をこう通すんだ」


 髭面の大男たちが、小さな少女を囲んで夢中になっている光景は、なんとも微笑ましく、そして平和だった。



 時折、ロウェナがリュートを取り出し、船乗りたちの低い作業歌に合わせてポロンと伴奏を入れると、甲板の空気は一層明るくなる。



 彼女は完全に、この『海燕丸』のマスコットとしての地位を確立していた。


ガイル船長に至っては、彼女が歌うたびに「風が喜んでる!」と破顔し、とっておきの菓子をこっそり渡している始末だ。



 俺は、メインマストの中ほどにある見張り台に腰掛け、眼下に広がるそんな日常を眺めていた。



 護衛としての定位置だ。ここなら船全体が見渡せるし、何より風が気持ちいい。



 平和だ。



 だが、海というやつは、そう長く退屈を許してはくれないらしい。



 昼下がり、海面の色が不自然に変わった。



「前方! 波立ちあり!」


 見張り台の船員が叫ぶのと、俺が異変に気づいたのは同時だった。



 ただの波ではない。無数の何かが、水面直下を凄まじい速度で疾走し、こちらへ向かってきている。



 ガイル船長が舵輪を握りしめ、甲板中に響き渡る大声で怒鳴った。



「総員、衝撃に備えろ! 『飛び矢魚トビヤウオ』の群れだ!」


 その名を聞いた瞬間、船員たちの顔色が変わる。



 飛び矢魚。鋭利な口先と流線型の体を持ち、水面から弾丸のような速度で飛び出して獲物を貫く、厄介な海の魔物だ。



「盾を持て! 網を張れ! 顔を出すなよ!」


 船上が蜂の巣をつついたような騒ぎになる。



 俺はマストから甲板へと滑り降りると、近くにいたロウェナを抱え上げ、積荷の木箱で作られた即席のバリケードの裏へと放り込んだ。



「ここから出るなよ!」


 言い終わるのが早いか、ヒュンッ! という鋭い風切り音が空気を裂いた。



 ドスッ!



 乾いた音と共に、マストの柱に銀色の影が突き刺さる。



 それは、大人の腕ほどもある魚だった。


槍のように鋭く尖った口先が、硬い木材に深々と食い込んでいる。あんなものが生身の人間に当たれば、ひとたまりもない。



「来るぞ!!」


 誰かの叫びと共に、海面が爆発したように弾けた。



 無数の銀色の矢が、雨のように船へと降り注ぐ。



「うわぁぁっ!」


 船員たちは盾や板切れを掲げ、必死に身を守る。



 甲板のあちこちで、突き刺さる音と、木片が飛び散る音が響く。



 その混乱の最中、青い顔をしたクリスが、ふらつきながらも立ち上がった。



 彼の手には剣ではなく、掃除に使っていたデッキブラシが握られている。



「ロウェナちゃんには……指一本、触れさせないっ!」



 吐き気を気合でねじ伏せ、クリスは仁王立ちになった。



 飛来する銀色の弾丸。



 クリスは動体視力を極限まで研ぎ澄まし、迫り来る魚をブラシの柄で正確に叩き落としていく。



 バシッ! ゴスッ!



 剣技の応用か、その動きには無駄がない。



 ふらつく足元とは裏腹に、彼を中心とした防衛線は鉄壁だった。



「右舷、三十度! 低い弾道で来ます!」


 クリスは迎撃しながらも、冷静に周囲へ指示を飛ばす。



 その的確な声に、混乱していた船員たちも落ち着きを取り戻し、網を使って魚を絡め取り始めた。



 だが、群れの中には規格外の奴もいる。



 一際大きな水柱が上がり、他の個体より二周りは巨大な、ヌシのような飛び矢魚が、船長がいる操舵席目掛けて一直線に飛び出した。



「しまっ――!」


 船長が反応するより早く、巨大な槍が迫る。


 

 俺は足元のロープを蹴り上げた。



 空中に舞ったロープの端を掴み、鞭のようにしならせて一閃する。



 パァァァァン!



 空気を震わす破裂音と共に、ロープの先端が巨大魚の横っ腹を正確に打ち据えた。



 軌道を逸らされた魚は、船長の鼻先数センチを掠め、そのまま反対側の海へと無様に落下していった。



「……ふぅ。危ないところだったな」


 俺が短く息を吐くと同時に、襲撃の波は去っていった。



 甲板には、ピチピチと跳ねる大量の銀色の魚と、安堵してへたり込む船員たち、そして、ブラシを杖にしてどうにか立っているクリスが残された。



「やったか……」


 ガイル船長が操舵席から降りてくる。



 そして、甲板に散らばる大量の魚を見て、ニヤリと笑った。



「野郎ども! 今夜はご馳走だぞ!」



 歓声が上がる。



 飛び矢魚は、その凶暴さに反して、身は締まって脂が乗り、非常に美味な高級食材としても知られていた。



 だが、ここで新たな問題が発生した。



「船長! こりゃあ無理だ! こんな量、俺一人じゃ夜までに捌ききれねぇ!」


 厨房から顔を出した船のコック――白髭を蓄えた強面の頑固親父、ガンツが、嬉しい悲鳴を上げたのだ。



 普段は一人で数十人分の賄いを切り盛りしている彼だが、数百匹はあろうかという魚の下処理となれば話は別だ。



 俺は、へたり込んでいるクリスの襟首を掴んで立たせた。



「ガンツさん、こいつを使えばいい。まだひよっこだが、包丁捌きと味付けのセンスは悪くないぞ」



 俺の推薦に、ガンツは太い腕組みをして、クリスを頭の先から足の先までじろりと値踏みした。



「……この青瓢箪がか? 海の上じゃ、包丁一本握るのも命懸けだぞ。足手まといになるようなら、すぐに海へ放り込むからな」


「は、はい! やらせてください! 料理なら……少しは自信があります!」


 クリスは蒼白な顔のまま、しかし必死に食らいつく。



 人手が足りないのは事実だ。ガンツは「フン」と鼻を鳴らし、顎で厨房をしゃくった。



「ついてきな。海の男の流儀、叩き込んでやる」


 厨房に入ったクリスを待っていたのは、陸とは全く違う、過酷な「戦場」だった。



「馬鹿野郎! 誰が真水を使えと言った!」


 クリスが魚を洗おうと桶の水に手を伸ばした瞬間、ガンツの怒声が飛んだ。



「船の上じゃ真水は血より貴重なんだ! 下処理は全部汲み上げた海水でやれ! 塩気もちょうど良くなる!」


「は、はい!」


 慣れない揺れる床の上で、クリスは必死にバランスを取りながら魚を捌く。



「足を広げろ! 腰を落とせ! 刃物持ったまま転んでみろ、誰かが大怪我するぞ!」


「火から目を離すな! この船は木でできてるんだ、ボヤ一つで全員海の藻屑だぞ!」


 次々と飛んでくる怒号と指導。



 それは料理の教えというより、船乗りとして生きるための鉄則そのものだった。



 クリスは必死だった。



 吐き気を気合で押し込め、言われたことを一つ一つ体に叩き込んでいく。



 そして、下処理を終えた魚を前に、彼はヴァイデの街やこれまでの旅で培った知識を総動員した。



 新鮮な魚は、素材の味を活かして薄造りの刺身に。



 アラからは濃厚な出汁を取り、貯蔵庫にあった乾燥野菜やオリーブの実と共に煮込んで、豪快な船乗り風のアクアパッツァに仕立てる。



 隠し味には、俺たちが持ち込んだ香草と、船長秘蔵の安酒を惜しみなく使った。



 夕暮れ時、甲板に並べられた大皿からは、暴力的なまでに食欲をそそる香りが立ち上っていた。



「うおぉぉ! なんだこれ、めちゃくちゃ美味ぇぞ!」


「店の味じゃねえか!」


 一口食べた船員たちが、次々と感嘆の声を上げる。



 ガンツも、アクアパッツァのスープを一口すすると、不愛想な顔をわずかに緩めた。



「……まあ、悪くねぇ手際だったな。陸のひよっこにしちゃあ、上出来だ」


 その一言に、クリスはへなへなとその場に座り込み、しかし満面の笑みを浮かべた。



「ありがとうございます……!」


 背中をバンバンと叩かれ、船員たちから酒を勧められるクリス。



 そこにはもう、余所余所しい「客」としての扱いはなかった。



 宴が盛り上がる中、ロウェナがリュートを手に取った。



 湿地で覚えた、あの不思議な旋律。



 最初は静かに始まったその音色に、船員たちが手拍子を合わせ始める。



 誰かが樽を叩き、誰かが口笛を吹く。



 やがてそれは、船全体を包み込む陽気で力強い合奏へと変わっていった。



 月明かりの下、種族も生まれも違う者たちが、一つの料理と音楽で繋がっている。



 俺はマストにもたれ、その光景を眺めながら、悪くない夜だと目を細めた。


 

 それから一週間。



 穏やかな航海が続いたある朝、船上に活気ある声が響き渡った。 



「港が見えたぞー!」


 俺たち三人は船首へと集まった。



 水平線の彼方、薄い朝靄の向こうに、陸地の輪郭と、それにへばりつくように広がる港町の影が浮かび上がっている。



 カレドヴルフへ向かう途中にある、最初の中継地点の港だ。



 船員たちが着岸準備のために慌ただしく動き回る中、クリスは厨房へと向かっていた。



 最後の片付けをするためだ。



「おう、クリス」


 包丁を研いでいたガンツが、顔も上げずに声をかけた。


「お前さんの包丁捌き、悪くなかったぜ。西の大陸に行っても、その腕があれば食いっぱぐれることはねぇだろうよ」


 それは、頑固な海の料理人からの、これ以上ないはなむけの言葉だった。



 クリスは背筋を伸ばし、深く頭を下げた。


「はい! ガンツさんに教えていただいたこと、決して忘れません!」



 ドォン……と鈍い音が響き、船体に軽い衝撃が走る。



 着岸だ。



 タラップが下ろされ、俺たちは一週間ぶりに「揺れない地面」へと足を踏み出した。 



 陸地特有の土と乾いた埃の匂いが、鼻孔をくすぐる。



「うわぁ……地面が、動かない……!」


 クリスが感動したように足踏みをしている。

 

 ロウェナも、ぴょんぴょんと跳ねて、地面の感触を楽しんでいた。



 港は朝市が始まったばかりのようで、活気に満ちている。



 だが、リューベックとはまた違う、異国の雰囲気が混じり始めていた。



「さて、行くか」


 俺が声をかけると、二人は元気よく頷いた。



 次の目的地、そしてまだ見ぬ出会いを求めて、俺たちは雑踏の中へと歩き出した。



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