風呼びの歌声と、西への船出
ぴたりと止まっていた風が、再び港に命を吹き込んだ。
凪が明けたのだ。
つい先ほどまで重く淀んでいた空気は一掃され、活気を取り戻した船乗りたちの怒号にも似た声が、波止場のあちこちから響き渡る。
「風が戻ったぞ! 総員、出航準備だ!」
「もやいを解け! 帆を張るぞ、急げ!」
慌ただしく動き出した男たちの視線が、時折、波止場に佇む俺たち三人に向けられる。その目には、畏敬と、確かな好意が宿っていた。
「おい、見たかよ。あの嬢ちゃんの歌が終わった途端に、風が吹き始めたぜ」
「ああ……まるで風の精霊様だ。ありがてえ」
船乗りたちの囁き声の中心で、当のロウェナは自分が何を引き起こしたのか全く分かっておらず、ただきょとんとした顔でクリスの外套の裾を握っている。
そんな俺たちの前に、先日までの険しい表情を消した『海燕丸』の船長が、満足げな笑みを浮かべて立ちはだかった。
「俺は『海燕丸』船長のガイルだ」
低く、しかしよく通る声で名乗ると、ガイル船長はロウェナの頭を大きな手で豪快にくしゃりと撫でた。
「船乗りってのは、何よりも『縁起』を担ぐ生きもんでな。あんたらの嬢ちゃんの歌は、俺たちに風を呼んでくれた。こいつは、この航海で一番の吉兆だ」
ガイル船長は、今度は俺たち三人を真っ直ぐに見据える。
「改めて、契約とさせてもらう。あんたたち三人を、この『海燕丸』に乗せてやろう」
俺が返事をする前に、船長はごつごつした指を立てて、条件を突きつけてきた。
「まず、そこの旦那と兄貴。あんたら二人は『船長及び船の護衛』として乗船してもらう。腕は立つんだろう?」
「ああ、問題ない」
「はい! お任せください!」
俺の即答と、生真面目に胸を張るクリスの返事に、ガイル船長は満足げに頷く。
「次に、嬢ちゃんだ」
視線を向けられたロウェナが、ビクッと小さな肩を揺らした。
「嬢ちゃんには、船乗りたちの景気づけに、時折でいい、その綺麗な歌を聴かせてもらう。それが役目だ」
「うたう?」
ロウェナは目を丸くした後、こくりと力強く頷いた。
自分の歌が役に立つことが、純粋に嬉しいらしい。
「よし、契約成立だ。あんたら三人の乗船料金は、護衛料と嬢ちゃんの歌で相殺して、格安にしといてやる。航海中の食事と寝床もこっちで提供しよう」
話が早くて助かる。俺が頷くと、船長は最後に釘を刺すのを忘れなかった。
「ただし、煙草みてえな嗜好品や、菓子なんぞは自分で用意しな。こいつは二、三ヶ月の長旅になる。途中の港には補給や商売で寄るが、一度外洋に出たら、無いもんは無いからな」
俺とロウェナは、互いの必需品を思い浮かべ、顔を見合わせて苦笑した。
「それと」
ガイル船長は、再び活気を取り戻した港全体を見回す。
「風が来た以上、ぐずぐずしてられねえ。出航は明日の昼前だ。それまでに全ての準備を済ませて、もう一度この場所に戻ってこい。いいな?」
「……明日の昼?」
クリスが素っ頓狂な声を上げた。
二、三ヶ月の航海準備にしては、残された時間はあまりにも短い。
「分かった。すぐに戻る」
俺は即座に状況判断を下し、クリスとロウェナの手を引いて波止場を駆けだした。
「師匠!? しかし、準備が……!」
「やるしかない。まずは宿だ!」
俺たちは、馴染みとなった「鴎の休み処」の戸を勢いよく開けた。
カウンターの奥で仕込みをしていた老婆が、俺たちの慌ただしい様子に、鋭い目を細める。
「おや、騒々しいね。何かあったのかい?」
「すまない婆さん、急用で発つことになった。今すぐ宿を引き払いたい」
俺が銀貨をカウンターに置くと、老婆は「ふん」と鼻を鳴らした。
「西へ行くのかい。まあ、あんたたちみたいなのが陸に縛られてる方が不自然だ。せいぜい達者でな」
ぶっきらぼうな言葉は、老婆なりの餞別だった。
俺たちは部屋に戻ると、荷物を大急ぎでそれぞれの背囊に詰め込んでいく。
「クリス、背囊は背負ったまま走れるように固く縛れ! ロウェナ、リュートは絶対に手放すなよ!」
宿を飛び出し、俺たちはそのまま市場の喧騒へと突っ込んだ。
まずは俺の必需品だ。
「師匠、煙草ならあそこの露店が一番安いはずです!」
「よくやったクリス!」
俺は馴染みの店で、ありったけの煙草を買い占めた。
店主が「おいおい、夜逃げでもするのか」と目を丸くしている。
「次はクリスだ! 船酔い薬と、武具の手入れ道具を忘れるな!」
「は、はい! 薬屋はあちらです!」
クリスが薬屋に駆け込むのを横目に、俺はロウェナの手を引いて菓子屋に並んだ。
「ロウェナ、日持ちするやつを好きなだけ選べ。ただし時間はかけるなよ」
「うん!」
ロウェナは目を輝かせ、干し果物と硬焼きのビスケットを、店員が驚くほどの量、袋に詰めてもらっていた。
まるで嵐のように買い出しや準備を終え、俺たちが再び『海燕丸』が停泊する桟橋に戻ってきたのは、翌日の昼前、出航を告げる鐘が鳴り響く直前だった。
「おう、間に合ったな!」
ガイル船長が、甲板の上から手招きしている。
最後の物資を積み込んでいた船乗りたちが、俺たち、特にロウェナの姿に気づき、人懐っこい笑顔で手を振ってきた。
「嬢ちゃん、昨日ぶりだな! お前の歌のおかげで風が来たんだ、ありがとよ!」
「よお、風呼びの嬢ちゃん! 航海中も、景気づけに一発頼むぜ!」
ロウェナは少し照れくさそうに、しかし嬉しそうに小さな手を振り返す。
事情を知らないらしい他の船乗りが、「なんだ、あのチビは?」と訝しげに尋ねると、昨日の目撃者が得意げに胸を張っている声が、遠巻きに聞こえてきた。
「馬鹿野郎、あのお嬢ちゃんこそが、この凪を終わらせた風の精霊様よ!」
ガイル船長が、甲板全体に響き渡る大声で、最後の号令をかけた。
「総員、配置につけ! もやいを解け! 錨を上げろ! 『海燕丸』、出航だ!」
船乗りたちが一斉にロープを操り、重い碇が水飛沫を上げて引き上げられていく。
「行くぞ」
俺は、ゴクリと唾を飲むクリスと、興奮に頬を赤らめるロウェナを促し、『海燕丸』へと続くタラップを上がった。
俺たちが甲板に足を踏み入れた瞬間、巨大な帆がリューベックの港から吹く風をいっぱいに受け、パンッ、と音を立てて大きく膨らんだ。
船体が、ゆっくりと、しかし確実に岸壁を離れていく。
活気に満ちたリューベックの港が、徐々に遠ざかっていく。
クリスとロウェナは、初めて体験する本格的な船旅と、遠ざかる陸地の光景に、言葉もなく見入っていた。
「……うみ、ひろいね」
「ああ。これが、師匠が見たかった景色なんですね……」
俺は、騎士様から聞かされた果てしない海原の景色を思い出しながら、潮風を浴びて煙草に火をつけた。
面倒な船旅になりそうだが、悪くない始まりだ。
『海燕丸』は、ロウェナの歌声が呼んだ風を受け、まだ見ぬ西の大陸カレドヴルフを目指し、広大な海原へと、その舳先を向けた。




