凪いだ港と、風を呼ぶ歌声
翌日から、俺たちのリューベックでの新たな目的が始まった。
「大陸の西部」へ向かう船を見つける――。
カレドヴルフという具体的な地名と、女王の羽根という確かな目的ができたことで、クリスもロウェナも、その足取りは心なしか弾んでいるように見えた。
だが、現実はそう甘くはなかった。
俺たちは、年配の冒険者の情報を頼りに、西行きの交易船団が停泊するという桟橋へと足を運んだ。
そこには、マストが林立し、様々な船旗が風にはためく、港で最も活気のある一角が広がっていた。
俺たちは手当たり次第、西行きと書かれた積荷を運ぶ船の船長や、積荷管理人らしき人物に声をかけていく。
「西行きの船の護衛を探していると聞いたんだが」
「あん? 護衛だと? 悪いが、西行きの船団の護衛は、長年付き合いのある傭兵団で固めてるんだ。よそ者を今さら雇う余裕はねえよ」
別の船では、もう少し話を聞いてくれそうな相手がいた。
クリスがすかさず口を挟む。
「我々は冒険者ギルド所属のBランクパーティです! 腕には自信が……」
「BランクだろうがAランクだろうが、航海のルールは別だ。大体、なんだそのチビは」
船長らしき男は、俺の後ろに隠れるロウェナを顎でしゃくった。
「子連れか。冗談じゃない。二ヶ月以上の船旅だぞ。ガキの遠足じゃねえんだ。足手まといを乗せる場所は、うちにはないね」
どの船も、取り付く島もなく断られる。
Bランクという身分も、ロウェナという小さな存在の前では意味をなさなかった。
数日にわたり探し続けたが、成果はゼロ。
護衛としての乗船はおろか、客としての乗船すら、子連れというだけで断固として拒否された。
「……参ったな」
途方に暮れた俺たちは、最後の望みを託して、漁師たちの桟橋にいるベックの元を訪れた。
事情を説明し、商船への口利きができないか相談してみる。
ベックは、網の手入れをしながら、申し訳なさそうに首を振った。
「すまねえな、エド。俺たちはただの漁師だ。大手の商船組合とは取引もねえし、連中に口を利けるほどの伝手は持ち合わせちゃいねえんだ」
「いや、無理を言ってすまなかった」
礼を言ってその場を離れようとした時、ベックがふと空を見上げ、眉をひそめた。
「……ん? 風が……止んだ?」
その言葉に、俺たちも空を仰ぐ。
先ほどまでカモメの声を運び、俺たちの髪を撫でていた潮風が、ぴたりと止まっていた。
巨大な帆船の帆が力なく垂れ下がり、あれほどうるさかった港の喧騒が、不気味なほどの静けさに包まれる。
「“凪”だ……」
ベックが、苦虫を噛み潰したように呟く。
その凪は、それから数日続いた。
漁師たちは漁に出られず、西への出航を間近に控えていた交易船団も、帆を張れずに港に縫い付けられたままだ。
最初は「まあ、一日二日の辛抱だろう」と高をくくっていた船乗りたちも、三日、四日と凪が続くと、次第に苛立ちを募らせていった。
港の酒場は朝から荒くれ者たちで溢れ、些細なことで喧嘩が頻発する。
街全体の空気が、重く、淀んでいくのが肌で感じられた。
俺たちも、船が見つからないまま足止めを食らい、ただ宿で時が過ぎるのを待つしかなかった。
凪が始まって五日目の昼下がり。
宿にいても気が滅入るため、俺とクリス、ロウェナは、すっかり静まり返ってしまった波止場に三人並んで腰掛け、鏡のように静かな海をぼんやりと眺めていた。
手持ち無沙汰になった船乗りたちが、波止場で酒を飲んだり、博打をしたりしているが、そのどれもがどこか気だるげだった。
その、重く静かな空気の中だった。
ロウェナが、膝の上のリュートをぽろん、と鳴らす。
そして、湿地でレイから教わったあの旋律を、小さな声で口ずさみ始めた。
それは言葉のない、リュートのメロディに声を乗せただけの、澄んだハミングだった。
彼女の歌声は、凪いだ水面を滑るように、静かに、けれど遠くまで響き渡っていく。
その不思議な音色に、荒んでいた船乗りたちが、一人、また一人と顔を上げた。
博打の手が止まり、酒を飲む口が止まる。
いつしか、大勢の船乗りたちが、その小さな歌声に惹かれて、俺たちの周りに集まってきていた。
誰もが、その清らかな響きに、荒んだ心を鎮められるように聴き入っている。
ロウェナが、歌い続けている。
その時、彼女の髪を優しく撫でるように、そよ、と風が吹いた。
止まっていた風が、戻ってきたのだ。
風は次第に力を増し、停泊していた船の帆を、再び大きくはためかせ始める。
「風だ!」
「風が戻ってきたぞ!」
船乗りたちが、一斉に歓声を上げた。
「嬢ちゃんの歌のおかげだ!」
「まるで風の精霊みたいだぜ!」
「凪が明けたぞ! 野郎ども、出航準備だ! 急げ!」
彼らは口々にロウェナに礼を言うと、今度は希望に満ちた顔で、慌ただしく自分たちの船へと戻っていく。
喧騒が遠ざかる中、一人だけ、年嵩の男性船乗りがその場に残っていた。
彼は、穏やかな笑みを浮かべ、俺たちに向き直った。
「あんたたち、大陸の西部へ向かう船を探してたそうじゃないか?」
俺たちが驚いて顔を上げると、男は続けた。
「俺は、西へ向かう交易船『海燕丸』の船長だ。船乗りってのは、縁起を担ぐもんでね。あの嬢ちゃんの歌声は、俺たちに風を運んできてくれた。……もし良かったら、俺たちの船に乗っていかないか? 護衛として、だが……ちょうど空きができたところだ」
予想もしなかった誘い。
俺とクリスは、顔を見合わせた。
それは、ロウェナの歌声が引き寄せた、新たな航路への、確かな誘いだった。




