二つの戦線と、女王への手土産
灯台の最上階、灯室。
俺は、巨大な巣の中心で卵を抱く「ハーピー・マットリアーク(女王)」と対峙していた。
女王は俺を侵入者とみなし、甲高い威嚇の鳴き声を上げている。
その赤い瞳は、卵を守ろうとする母親の狂気と、女王としての気高さがないまぜになって、爛々と輝いていた。
(……こいつが、ホブゴブリンどもが怯えていた相手か)
その威圧感は、先ほどのリーダー格の比ではない。
俺は即座に愛刀を構えたが、戦うつもりは毛頭なかった。
ホブゴブリンのように、明確な敵意や殺意だけを感じない。
ただ、己のテリトリーと、何よりも大切な卵を守ろうとする、純粋な防衛本能。
俺はゆっくりと両の手のひらを彼女に見せ、剣先を慎重に下げていく。
「落ち着け。あんたの卵をどうこうする気はない。敵は……もういないはずだ」
言葉が通じるとは思えない。
だが、敵意がないことを必死に示す。
女王は俺の意図を測りかねているのか、あるいは卵を守ることを最優先しているのか、翼を広げたまま、すぐには飛びかからず、張り詰めた一触即発の睨み合いが続いた。
その緊迫した静寂を破ったのは、灯台の下から響き渡る、複数の男たちの怒声だった。
「チッ、まだ生きてやがったか!」
ガレックの声だ。
討伐隊が到着したらしい。
夜のとばりが降りた灯台のふもと。
松明の光に照らし出されたのは、岩場に叩きつけられ、瀕死の状態ながらも未だ息のある一体のホブゴブリンだった。
俺が三階で見た、リーダー格に蹴り飛ばされた個体だ。
ガレックが先陣を切り、大盾を構える。
「野郎ども、囲め! とどめを刺すぞ!」
手負いとはいえホブゴブリンの力は凄まじい。
ガレックの盾に棍棒が叩きつけられるたび、重い衝撃音が響き渡る。
他の冒険者たちが槍や剣で隙を突くが、頑健な皮膚に阻まれ、なかなか致命傷を与えられない。
「くそっ、しぶとい野郎だ!」
その時、後方から鋭く風を切る音が響き、矢が正確にホブゴブリンの残っていた右目を射抜いた。
「師匠は、この上に……!」
弓を構えたまま、クリスが叫んだ。
彼の援護でホブゴブリンが視界を失い、怯んだ隙を、年配の冒険者が逃さなかった。
「ガレック! こいつは俺たちに任せろ! お前さんたちはこの小僧の師匠を追え!」
ガレックは舌打ちしつつも、「行くぞ、小僧!」とクリスを促し、数名の精鋭を連れて灯台内部へ突入する。
彼らは一階のゴブリンの死体を見て眉をひそめ、そして二階の踊り場で、リーダー格だったホブゴブリンの巨大な亡骸を目の当たりにし、息を呑んだ。
「こいつを……一人でやったのか……!?」
ガレックが、その見事な一太刀の痕を見て戦慄する。
この化け物を単独で、しかも短時間で仕留める腕前。
先日のギルドでの無礼な態度を思い出し、冷や汗が流れた。
クリスは、師匠の無事を祈る一心で、その横を駆け抜けた。
そして、勢いのまま灯室に駆け込んできた討伐隊が目にしたのは、巨大な女王ハーピーと対峙し、睨み合いを続ける俺の姿だった。
「エド! 無事か!」「師匠!」
ガレックたちが武器を構えて突入してきたことで、事態は最悪の方向へ転がった。
新たな侵入者の集団に、女王ハーピーが激昂。
卵を守るために翼を広げ、耳をつんざくような金切り声を上げる。
空気がビリビリと震え、灯室全体が彼女の殺意に満たされた。
「待て! 刺激するな!」
俺は討伐隊の前に立ちはだかり、両手を広げて大声で制止する。
「こいつは巣と卵を守ってるだけだ! 敵はホブゴブリンだったが、そいつらはもう俺が始末した!」
俺の必死の説明にも、女王は警戒を解かない。
その時、灯台の下から討伐隊の雄叫びが響き渡った。
ガレックたちが突入したことで生まれた隙を、残ったメンバーが突き、ついに手負いのホブゴブリンを仕留めた音だった。
これで全てのホブゴブリンが全滅した。
だが、女王はまだ目の前の俺たちを信用していない。
俺は、女王がまだこちらを信用していないことを見て取り、ガレックに命じた。
「ガレックさん、悪いが二階に降りて、俺が倒したホブゴブリンの首を持ってきてくれ。手土産だ」
「あぁ? 首だと?」
「いいから早く! 刺激しないように、こいつに、俺たちの敵が誰だったか、教えてやるんだ」
訳が分からないという顔をしつつも、俺の真剣な眼差しに圧されたガレックが、部下と共に階段を駆け下り、やがて巨大なホブゴブリンの首を運んできた。
俺はその首を受け取ると、女王の巣の前にゆっくりと転がし、差し出した。
そして、自らの愛刀を、カラン、と音を立てて静かに床に置いた。
両の手のひらを再び女王に見せる。
「これで分かってくれ。あんたの敵は、こいつらだ。俺たちは、もうあんたに用はない」
女王ハーピーは、ホブゴブリンの首と、俺の置かれた剣を交互に見比べた。
討伐隊の面々も、ガレックもクリスも、固唾を飲んでその光景を見守っている。
張り詰めていた殺意が、ゆっくりと霧散するように和らいでいく。
女王は、翼の緊張を解き、威嚇の声を潜めた。
俺は、女王が理解したことを感じ取り、静かに告げた。
「頼みがある。その卵が孵ったら、ここを離れて欲しい。ここは人間の街に近すぎる」
言葉が通じたわけではないだろう。
だが、女王は俺の意図を察したかのように、その気高い頭を、一度だけ静かに下げた。
それは、緊迫した灯台の頂で、松明の火に照らされながら、種族を超えた奇妙な和解が成立した瞬間だった。




