それぞれの約束と、灯室の女王
俺は壁に背を預けたまま、ホブゴブリンの亡骸が転がる踊り場で、二本目のタバコに火をつけた。
紫煙をゆっくりと吐き出す。
傷一つないとはいえ、神経をすり減らす戦いで消耗はしている。
そして何より、この上にいる正体不明の存在が、鉛のように重くのしかかっていた。
(増援を待つのが最善策か……? いや、クリスの報告をギルドがすぐに信じるとは限らん。それに、あいつらが来る前に、この上の状況だけでも把握しておくべきだ)
頭ではそれが正解だと分かっている。
しかし、ホブゴブリンをあれほど怯えさせていた存在――その正体を確かめずにはいられないという、元衛兵としての性分と、一人の剣士としての好奇心が頭をもたげた。
俺が逡巡している頃、リューベックの街では、クリスが必死に行動していた。
ギルドに報告を終えたクリスは、討伐隊の編成を待つ間、眠るロウェナを背負って宿に戻っていた。
ベッドにそっと寝かせ、温かいスープを用意して彼女が目を覚ますのを待つ。
やがて、うっすらと目を開けたロウェナに、クリスは優しく、しかし真剣に語りかけた。
「ロウェナ、君はここで待っていてくれないか。師匠を助けたら、すぐに戻ってくるから。これ以上、君を危険な目に遭わせるわけにはいかないんだ」
討伐隊に同行する。
それは、クリスがギルドで報告を終えた時から決めていたことだった。
師匠が一人で戦っているのに、自分だけが安全な場所で待っているなど、到底できなかった。
しかし、ロウェナは静かに首を横に振った。
そして、クリスの目をじっと見つめて、はっきりとした口調で言った。
「くりすも、いくの? なら、わたしもいく。えどを、ひとりにしない」
その瞳には、ただの子供のわがままではない、仲間を案じる強い意志が宿っていた。
クリスは言葉に詰まる。
どう説得すればいいのか。
その時、彼の脳裏に、潮風に吹かれる快活な少女の笑顔が浮かんだ。
クリスは一つの答えにたどり着くと、ロウェナを連れて再び街へ出た。
市場で人々に聞き込みをして、漁師であるベックとローラの家を探し当てる。
突然の訪問に驚くベックに、クリスは事情をかいつまんで説明し、深々と頭を下げた。
「危険な場所へ、この子を連れて行くわけにはいきません。どうか、討伐隊が戻るまで、ロウェナを預かっていただけないでしょうか」
事情を聞いたベックは、娘のローラとロウェナの友情を思い、黙って頷いた。
横から顔を出したローラも、「ロウェナちゃん、大丈夫だよ! ここでお父ちゃんと一緒に待ってよう!」と彼女の手を握る。
ロウェナは不安そうにクリスを見上げたが、クリスは彼女の目を見て力強く約束した。
「必ず、師匠を連れて帰ってくる。だから、ここでローラちゃんと待っていてほしい。いいね?」
ロウェナは、クリスの真剣な眼差しと、ローラの温かい手に、ようやくこくりと頷いた。
クリスはベックとローラに改めて礼を言うと、討伐隊に合流するため、ギルドへと引き返していく。
その背中は、もう迷いを振り切っていた。
灯台では、俺もまた、逡巡の末に決意を固めていた。
「……まあ、どんな奴が居座ってるか、顔くらいは拝んでおかないとな」
誰に言うでもない言い訳を呟くと、俺は身支度を整え、最後の螺旋階段を慎重に登り始める。
階段には、おびただしい数の黒い羽根が、まるで絨毯のように積もっていた。
血と腐敗の匂いは完全に消え、代わりに、潮の香りに混じって、何か甘ったるいような、それでいて少し焦げ付いたような奇妙な匂いが漂ってくる。
灯室にたどり着き、入り口の陰から中の様子を窺う。
そこには、おびただしい数の枝や流木で編まれた、巨大な鳥の巣が築かれていた。
巣の中心にいたのは、一体のハーピー。
しかし、その姿は尋常ではない。
通常のハーピーより二回りも大きく、カラスのように濡れた光沢を放つ黒い翼を持つ、女王の風格を漂わせた個体だった。
女王は巣の中で、人の頭ほどもある巨大な卵を、慈しむように抱いている。
彼女は出産(孵化)を控えており、そのためにこの古巣に戻ってきたのだ。
そして、極度に神経質になっている。
この光景を見て俺は全てを理解した。
ホブゴブリンたちは、この女王と、おそらくは非常に価値のあるであろうその卵を狙っていた。
だからこそ、俺という闖入者に獲物を横取りされることを警戒し、上階を気にしていたのだと。
俺が息を呑んだ、その瞬間。
女王が鋭く顔を上げ、その爛々と輝く赤い瞳が、入り口に潜む俺の姿を正確に捉えた。
キーーーーーッ!
甲高い、しかし威厳に満ちた威嚇の鳴き声が、灯台の頂に響き渡る。
俺は静かに愛刀を抜き、いつでも動けるように構える。




