伝令の覚悟と、元衛兵の覚醒
クリスはロウェナの小さな手を固く引き、必死の形相で街へと続く崖道を駆けていた。
時折、背後にある灯台を振り返りそうになるのをぐっとこらえ、ただ前だけを見て走る。
しばらく走り、息が上がったところで、街道脇の岩陰で一度足を止めた。
「はぁ……っ、はぁ……」
肩で息をするクリスの隣で、ロウェナも膝に手をつき、小さな胸を上下させている。
その不安そうな顔に、クリスは自らを奮い立たせるように、力強く語りかけた。
「大丈夫だよ、ロウェナ。師匠は、僕たちが知っている誰よりも強い人だ。だから僕たちは、師匠から託された役目をしっかり果たさないと」
ロウェナはこくりと頷き、再びクリスの手を握った。
その手は、まだ小さく震えている。
その頃、灯台に残ったエドは、二人の姿が完全に見えなくなるのを確認すると、改めて目の前の脅威へと向き直っていた。
俺は冷静に状況を分析する。
(クリスがギルドに辿り着いても、子供の話だと信じてもらえるか分からない。すぐに増援が来る保証はない。ただ待っていても仕方がない)
ならば、やることは一つ。
灯台に潜む脅威を前に、忘れていた闘争心が昂るのを感じる。
口元に、好戦的な笑みがわずかに浮かんだ。
「……久しぶりに、全力でやれるかもしれんな」
俺はただ時間を稼ぐのではなく、まず目の前の脅威――ホブゴブリンを全て排除することを決意した。
脳裏に、衛兵になったばかりの頃、森での討伐隊に参加した記憶が蘇る。
初めて見たホブゴブリンの圧倒的な膂力と凶暴性。
その時は、ベテランの先輩たちの背後で、ただ震えていることしかできなかった。
(だが、今は違う)
俺は思考を切り替え、陽動のために灯台の二階へと向かった。
踊り場で、愛刀の側面を石壁に何度も叩きつけ、大きな音を立てる。
その音に、上階のゴブリンたちが騒ぎ出し、やがて数匹が警戒しながら螺旋階段を降りてきた。
「――来たか」
俺は待ち構え、物陰から奇襲をかけて全て斬り伏せた。
その死体を片付けることもせず、さらに大きな音を立てて挑発を続ける。
痺れを切らしたのか、今度は階段を駆け下りてくる足音が、これまでとは比較にならないほど重く、大きかった。
三階から二階へと続く階段の踊り場に、一体のホブゴブリンがその巨大な姿を現した。
棍棒を片手に、血に飢えた目で俺を睨みつけ、咆哮を上げる。
俺は真正面から打ち合うつもりなど毛頭なかった。
ホブゴブリンが棍棒を振りかぶり、突進してくる。
俺はその攻撃をひらりとかわすと、螺旋階段を駆け下りた。
巨体を持て余したホブゴブリンは、狭い階段で急に止まれず、壁に肩を打ち付けて体勢を崩す。
その隙を、俺は見逃さない。
反転し、奴の太い脚に、愛刀を浅く、しかし鋭く一閃する。
致命傷にはほど遠いが、確実にその動きを鈍らせるための一撃。
ホブゴブリンは怒りの咆哮を上げ、棍棒を横薙ぎに振るう。
石壁が砕け、破片が飛び散る。
俺はそれを紙一重で避け、常に奴の攻撃範囲の外を動き続けた。
一撃でも受ければ終わりだ。
だからこそ、絶対に攻撃は受けない。
速さで翻弄し、体勢を崩したところに小さな一撃を加え、すぐさま離れる。
その繰り返し。
やがて、無数の傷から血を流し、疲労の色が見え始めたホブゴブリンが、大きく息を吸い込み、渾身の一撃を振り下ろしてきた。
俺はその大振りの一撃を待っていた。
棍棒が床を叩きつけ、轟音と共に石畳を砕く。
一瞬の硬直。
俺はその隙に懐へ潜り込み、がら空きになった喉元へ、切っ先を深く突き立てていた。
陽が沈み、空が茜色に染まる頃。
疲れ果てて眠ってしまったロウェナをおんぶしたクリスが、リューベックの西門に辿り着いた。
彼は衛兵に事情を話す間も惜しみ、冒険者ギルドへと直行する。
酒場の喧騒に満ちたギルドに、クリスの必死の声が響き渡った。
「お願いします! 緊急の報告です!」
受付嬢に掴みかかるように状況を説明するクリスの姿に、周囲の冒険者たちの視線が集まる。
近くで酒を飲んでいたガレックが、面白そうに声をかけた。
「なんだぁ、小僧。ゴブリン退治もできずに逃げ帰ってきたのか?」
しかし、クリスは怯まない。
彼はガレックを睨みつけ、はっきりとした声で言い返した。
「違います! 灯台にホブゴブリンが複数います! ですが、奴らは最上階の灯室にいる“何か”を恐れている! 師匠は、守り切れるかわからないと、僕たちを逃がすために、一人でそこに……!」
「何だと? あいつ、一人で残ったのか?」
ガレックが訝しむ。
その時、以前俺に声をかけた年配の冒険者が口を挟んだ。
「ガレック、こいつの目は嘘をついちゃいねえ。少し話しをしただけだが、あいつならやりかねん、そういう目をしていた……」
騒ぎを聞きつけたギルドマスターが姿を現し、クリスから詳細を聞き出す。
ホブゴブリンが複数、そしてその上に正体不明の脅威。
事態の深刻さを理解したギルドマスターの顔色が変わった。
同時刻、灯台の三階踊り場。
俺の足元には、今しがた仕留めたホブゴブリンが転がっている。
だが、仲間がやられたことに気づいたのか、残りのホブゴブリン――一回り大きいリーダー格を含む二匹が、四階から三階へとその巨大な姿を現した。
これまでとは比較にならない圧力を感じ、俺は即座に距離をとる。
一方、リューベックのギルドでは、ギルドマスターが酒場にいる冒険者たちに向かって宣言した。
「聞け! “古き灯台”の脅威を排除する! これはCランク以上の者を対象とした、緊急の指名依頼だ!」
その言葉に、ガレックが誰よりも早く立ち上がる。
彼は飲みかけのエールを呷ると、ジョッキを叩きつけるようにテーブルに置いた。
「おうよ、任せとけ。あの馬鹿に、でけえ借りができちまったからな」
年配の冒険者を始め、腕利きの者たちが次々と立ち上がり、即席の討伐隊が編成されていく。
灯台では、俺が残る二体のホブゴブリンと対峙し、その先の未知なる相手を思考の片隅に置きながら、次の一手を巡らせていた。
陽が完全に落ち、港町リューベックに夜のとばりが降りる頃。
ギルドの前に集った討伐隊は、それぞれの得物を手に、松明に火を灯していた。
ガレックを先頭に、その覚悟を決めた光の列が、固く閉ざされた街の門から、闇に沈む崖道へと静かに進んでいく。
ゴブリン数匹=衛兵の感覚です。
ホブゴブリン格段に強いです。




